「おたく文化」

社会の構造が壊れていくとき、またはそれがはなはだ混乱した時、個々の人間、取り分け既存概念が形成されていない若者は、従来の価値観から放り出され、そこで行き場を失い後ろを見てしまう。
つまり多様な価値観が混沌として現れる中で、より劣悪なもの矮小なものを求めてしまう価値反転性が競われていくことになる。
だがこうした傾向は何も社会が混乱したときだけに起こるとは限らない。
 すなわち個々に措いて何がしかの破綻が訪れたとき、そこにも同じ状態が発生して来るのであり、両親の離婚、事業倒産、失業、または軽度うつ病による社会的乖離、こうしたことでもやはり同じ傾向が現れてくる。
 この傾向の決定的なところ、それは自身の力ではどうにもならない所からもたされるものであり、例えばそれが親の事業の倒産だった場合、そこに付きしたがって暮らしてきた子供は、事業倒産と共にそれまであった親の庇護から一瞬にして外の現実世界に放り出され、およそ解決困難な色んな事態に晒されるが、ここで発生してくるものも価値反転性の競合になる。
 それ故、俗に言う「おたく文化」は、いかにも現代的な傾向のように考えられがちだが、実は構造的背景を持った傾向だったことが分かるのである。
価値反転性の競合と言う点で見ると、「おたく文化」は、同じ傾向に近い○○マニアとは決定的な差があるが、その一つは社会性であり、例えば近年問題も多い鉄道マニアなどは、趣味を大切にしながらも社会生活を営み、その枠組みを自身の内に継続させているが、「おたく」の場合は社会性が欠落して来ているように見えることである。
 私がむかし知っていた人で、男性だが彼はハイヒールの収集をしていて、陳列棚を作って、そこには基本的には赤と黒のあらゆるハイヒールが片方ずつ並べられていたものだった。
それは見るからに危険な雰囲気で、これだけ見ればもしかしたら「変態」なのではと思えるものだが、彼には妻子もいて、家族公認の趣味となっていて、集めたハイヒールは全て妻を同伴し、彼女を通して買ったもので、彼には勿論社会的地位もあった。
 当時私はこうした趣味と言うものが全く理解できなかったが、それから後テレビで作曲家の三枝成彰氏が、やはりこのハイヒールフェチの話に及んだ際、「この感覚は自分にもある」と公言していたのを聞いて、なるほどと思ったものだ。
 このようにマニアと言うものはその対象がいかにあざとい物であれ、そこに一極集中された物質的対象が存在し、それが自身の内に価値を高めていく傾向にあるが、「おたく」は、実はこの逆の方向性を持っていて、アニメ、ゲーム、漫画などと言ったより虚構性の高いものを求めていく傾向と、更にはマニアが一極集中なのに対して、興味が複数に及び、そこにマニアのような決定的情念が見られないことだ。
 こうしたことから見えてくるのは、「おたく」と言う社会現象の根底に沈むものが、反社会や思想ではなく、世の中や社会が劣悪だと看做しているもの、価値がないと看做しているもの、または幼稚、稚拙としているものにより高い指向性を持っている、いやこうした指向性そのものが「おたく」と言うものかも知れないが、そうしたもののように思える。
 従って「おたく」としたものは、世の中や社会ではどちらかと言えば欠落したもの、幼稚なものを指向していくことから、おのずとそこに社会性などは無いように見えてしまうのであり、一般的に人間は実体を持つものに評価を与えやすいが、実態の無い虚構にはなかなか価値を見つけにくく、それ故「形あるもの」は常に形の無いものより上位にあるように考えがちだが、より虚構性の高いマイナーへと移動していく「おたく」は、これに相反してよりバーチャルな方向へと動いていく。
 更にマニアのように一極に集約された物質に対する情念を持たない「おたく」は、何か特定のものに執着することが無く、基本的には社会的により価値の無いもの、マイナーなものへと移行していく傾向そのものであるとすれば、そこにある対象は有って無きようなもので、凡そ全ての分野へとその対象が存在していく可能性を秘めていることから、社会的な部分がそれを予測する、つまり評論家や学識経験者では全く予測も付かない新しい価値観を発生させていくのである。
 1980年代後半からその言葉が聞かれるようになって行った「おたく」、その背景には金、金のバブル期の親達が、バブル崩壊の時に見せたあらゆる価値観の崩壊に対して、子供達がその代わりになる価値観を探そうとして行き着いた、価値反転の競合が根底にあり、しかもこうした傾向は自信を失った人間には比較的起こりやすい傾向だった。
 そして長びく不景気と国際社会の急激な変化、そうした中で生きる我々日本人は、今やこの価値反転の競合を不自然なものとは思わなくなりつつある、つまりより劣悪なものを探していく傾向は、「おたく」と言う存在が社会的認知度を高めるに従って日本文化として成立したことを意味し、なおかつ今の段階では日本の新しい価値観でもある事を示しているのである。
 日本文化は古くから海外より輸入された文化を正当な流れとする文化的傾向を持っている。
それ故こうした海外の文化は日本で多様な、そして独特の展開を果たし、日本国内では亜流、低俗なものと看做されてきた文化が海外、ことに欧米で価値を見出され、それがまた日本に逆輸入される傾向が繰り返されてきた。
 古くは黄金の国ジパング伝説がそうだろう、またポスターのようなものが評価された「写楽」や「歌麿」がそうだろう、明治の日本ブームもそうだ、そして今は「おたく」がそうしたものとなっているのである。
 映画や音楽、伝統芸能は文化と認められても漫画、アニメ、ゲームなどは到底文化とは認められなかった日本社会、「おたく」と言うものが社会性から離れていくことが特性だったことから、常に劣悪なものとの評価しかなかったが、この日本で劣悪だとされてきたマイナー文化が、現在日本が誇る日本発の文化として海外に認められている現実は、それまで否定的だったあらゆる大人たちの価値観を反転させ、動きの遅い政府までも、動かざるを得ない状況に追い込む力があったことを認識しなければならない。
 そして日本が誇る「おたく文化」だが、海外で圧倒的人気のある漫画、アニメキャラクター、ゲームキャラクターブームは、基本的に価値反転の競合と言う流れを示しているものであり、これは社会的にも個人的にも「破綻」か、それに近い状態、もしくは行き場を失ったときに現れやすい傾向であること、その発信が日本であり、そして世界的流行を見せていると言うことは何を意味しているか、今、「おたく文化」が流行している国々では何が起こっているか、それはもう私が説明するまでも無いだろう・・・。
 ちなみに私はエヴァンゲリオンでは、全く心が感じられない「綾波レイ」のファンだった・・・。
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 資本主義と民主主義は、現代の諸問題を解決する理念を提示することが出来なくて、少数の貴族と大多数の奴隷に分かれて(自分は奴隷側に行きそうですが-笑い)社会が崩壊して混沌が長く続くことんあるのでしょうかねぇ。
    価値のないものでも、みんなで遣れば一定の価値を認めざるを得ない、と言うこともあるでしょうが、普遍的な何かは、有るだろうし、有って欲しいと思っております。行儀の良さとか優しさとかは、殆ど言語表現無しに小さな行動で、世界中で理解されて居るようですから。

    日本人は一般的に表現的ではないと思われていますが、1000年以上前から、凄い小説が沢山有るし、表現方法を知らない訳じゃなく、押さえて、静かな笑みで荒波を乗り越えて行く気がします。

    綾波は第三次ソロモン海海戦で勇戦した駆逐艦名ですね。全般的には作戦が余り良くなかったようで不運でしたが、この艦の乗組員は撃沈されて漂流しているときも意気軒昂だったらしいです。ルンガ沖夜戦では、作戦指揮が凄いもので、決断の重要性が対比できそうです。双方から戦訓は、それぞれ導き出されるようですが、現代日本は、みんな有ったことも忘れたがっている様な感じです。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私から見えるこの世界は、ただ事象のみが延々と流れ、人間がそれをどう評価するかに拠って或る時は落ち着き、或る時は焦る事を繰り返しているように感じます。本当は自身が持つ弱さやその心の卑しさから何かを恐れ、少しばかり調子が良ければ傲慢になり優しさや人間性を思う・・・。
      欧米や古代中国でも「平和」の概念は戦争の隙間の時期と概念され、では戦争が永遠に続くのかと言えばそう言う訳でない。すべては恐れと傲慢の繰り返しに拠って次の人間社会の時代が動いて行ったように思います。この意味では確かにこの世は人間が創っていると言えそうですが、安定できないのはやはり恐れ、それも自身の弱さや卑しさからくる恐れに拠って人間社会は秩序と混沌を繰り返しているように思えます。日本文化は常に入ってくる文化を洗練させ、そして元の文化が滅びてもそれを忠実に残そうとする部分が有り、例えば中国古典思想でも、中国では滅びても日本では残っていますし、古いスペイン語やポルトガル語も単語の形で日本だけが継承しているものも有る。とても不思議な民族だと思います。
      唯戦争に関しては第二次世界大戦の敗北に拠って、やはり逃げているし、これだけ時間が経過すると戦争そのものが夢の彼方に追いやられてしまって来ます。しかしこうした歪んだ思いの中で、アニメの世界では比較的自由に戦争が描かれている。表だって肯定できないものがアニメーションの中では自由に描かれている事を思うなら、日本民族の思いはこうしたチャラいものの中に形を変えて生き残っていくのではないか、それでも日本は日本の形を残していくのではないかと、そんな淡い希望を私は持っているかも知れません。

      さて今日は過去に書いた太平洋戦争のエピソードを掲載してみましょうか・・・・。

      コメント、有り難うございました。

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