「そんなに若い女が恐いか」・Ⅰ

「おい、お前、女か・・・」

長州藩の関所前で何やら大勢の人だかりができ、その真ん中でこれまたついぞ最近見かけぬ、華々しい出で立ちの若侍が啖呵をきっている場面に出くわした高杉晋作、僅かに白きうなじの有り様に、この若者が女であることに気が付いた。

1864年「禁門の変」の結果によって朝廷から長州征伐の勅命(命令)を受けることに成功した徳川幕府は、前の尾張藩主である「徳川慶勝」を征長総督に任命し、10月には諸藩の軍事力を総動員し、長州藩を完全に包囲した。

これを機会に反幕府勢力の急先鋒である長州を徹底的に叩いておこうと言う訳である。

これに対して長州藩では同年8月にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊から攻撃を受けたばかりで、とても幕府の軍勢と戦える状態ではなく、現実論が支配的となって行った事から、それまでの「攘夷派」に変わって「保守派」が勢力を握るようになり、戦をせず、幕府に対して恭順の意を示す方向へと傾いて行った。

その結果高杉晋作ら攘夷派は長州藩から出て行くか、あるいは捕えられ、謹慎蟄居となって行ったが、こうして長州が攘夷か保守かと揺れていた時期に、他国の者が入って来ないよう設けていた長州の関所で、この事件は起こったのである。

「ああ、私は女だ、長州の男はまことに腑抜けだな、若い女がそんなにおそろしいか!」

義経袴を身にまとい、朱塗り鞘の大小を脇に差した見目麗しき若者は四方を囲まれ、抜かれた切れ味鋭そうな刀の林の中で「かんらかんら」と高笑いをしていた。

「いい度胸だな、して長州には何用だ」

「お前がこの木っ端役人どもの頭か、私は故有って当藩家老宍戸備前守様(ししど・びぜんのかみ)にお会いしに参上した」

「早くこの腑抜けどもを引かせろ」

「それは残念だな」

高杉晋作は少し頭を掻くようにするとぼそぼそと話を続ける。

「長州も見ての通りのざまよ・・・、私もいつ追放になるか分からん身の上ゆえ、お前の役には立てん」

「何だ、お前もこのぼんくら共と一緒か」

「そう言うことだ・・・」

高杉晋作は少し苦笑いを浮かべ、その場を通り過ぎようとする。

「待て、私は唐津高徳寺の娘だ、宍戸備前守様は私の伯父に当たるものだ、おい話を聞け」

若侍装束の女は去っていく高杉を何度も呼び止めた。

しかし高杉晋作は黙ってその場を立ち去るしかなかったが、それには訳がある。

既に朝廷から長州征伐の勅命が発せられて以降、長州では徐々に保守派が台頭し始め、高杉等の意見はもう通りにくくなっていたのであり、場合によっては高杉晋作の介添えであることだけにても、その話は却下される可能性が高くなっていた為だった。

「えーい、まどろっこしい者どもだ、通せと言うのが分からんのか、通せないと言うなら訳を申せ!」

若侍装束の女は高杉がいなくなってからもあたりの役人達に啖呵を切っていたが、一向に埒が明かない。

「木っ端役人では話にならん、お前等の上役を連れて来い、上役に直談判する」

「他国の者は通すなとの規則だ、通せぬものは通せぬ」

女と役人の押し問答は続く・・・。

そしてこの押し問答は4日目の朝を迎えたが、これまでと何ら変わらない押し問答を続ける女と役人たち、やがて憔悴して道端で座り込んでいた女の肩をぽんぽんと叩く者が有ったが、それは女も顔なじみの高徳寺出入りの商人だった。

「お迎えに参りましたよ」

商人は関所で侍装束の女が暴れていると言う噂を聞きつけ、もしかしたらと思い長州領内から女を迎えに来たのだった。

この時、数日に渡って長州藩の関所で暴れたこの若侍装束の女こそ、19歳の「奥村五百子」(おくむら・いおこ)である。

「そんなに若い女が恐いか」Ⅱに続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。