古代ギリシャの数学は線を点の集合と概念した。
この世界には2/3や5/7のように、「整数/整数」で表す事のできる数が存在するが、こうした数字のことを「有理数」(ゆうりすう)と呼ぶ。
古代ギリシャでは、「数」は整数、有理数を指していて、有理数はマイナスも含めると、その範囲では足し算、引き算、割り算、掛け算の4法則演算が可能となる完全な「数」だった。
しかし直角三角形の直角を挟むそれぞれの辺が1の時、その相対する斜辺をXとすると、ここにX2 =12 +12=2の要件が満たさなければならなくなる。
この時Xは一般的に√2と表されるが、では√2は割り切れる数字かと言えば、永遠に割り切れない数字であり、こうした数字のことを「無理数」(むりすう)と言う。
さて困ったことになった・・・。
線を点の集合と概念していた古代ギリシャ数学は、ここで世に発表してしまえば自身たちの存在が危うくなるかも知れない数学の摂理を見てしまったのだ。
つまり「数」を有理数だけとした時、線を点の集合と概念するなら、その点が未来永劫割り切れない場合、点はその中に無限の線を描くことになり、ここに線は点の集合(有理数の集合)ではないことが露見してしまうことになったのである。
ゆえに古代ギリシャでは、こうした未来永劫割り切れない数字、「無理数」の発見は数学界最大の不祥事となってしまった。
そしてその結果、「無理数とは外へ出してはならない数」、「門外不出の数」となり、ピタゴラス学派ではこの「数」を隠し通すために、口外した者は命を持って償うべき「恐ろしい数」とされ、事実「無理数」を語った者は、ピタゴラス学派によって「溺死」に処せられたと言う伝説が残って行くことになるのである。
こうして「数」の中には有理数と無理数が存在することが分かったが、では実数とは有理数と無理数の4法則演算で出て来る数だけなのだろうか。
例えばX2=12+12=2にしてもそうだが、こうした数は全て整数係数方程式の「解」となっているのであり、例題に措けるXの「解」が√2と言う事になる。
このような「数」のことを「代数的数」(algebraic number)と言うが、一方で19世紀に入り、こうした「代数的数」以外の「数」の概念が現れてくる。
それが「超越数」と呼ばれるものであり、円周率「π」や自然対数の底「e」などと言った数がこれに相当する。
「集合」の分野では「ヴァン図式」(Venn diagram)の中に、有理数と無理数、代数的数と超越数が対等形式で表記されているが、実数中の大部分が無理数であり、その無理数の殆どが超越数となる。
それゆえいまだに「実数」とうものがしっかり定義できない素因は「超越数」の存在が有るからに他ならない。
「e+π」などが未だに見当が付かない、全く不明な点を考えるなら、「数」と自然、森羅万象の理はどこかで融合しているのかも知れず、この世の事象に有理数は厳密には存在せず、しかも「数」は今も揺らいでいるのかも知れない。
「語るべからざる数」
数学に王道なし、ユークリッド~~♪
数学は芸術の様だとか、美しい、とか、色々形容が有るようで、無数の定理・公理などが有り、なければ色んな科学技術も無い~~♪
と言う事だが・・
人間の生活に、有用無用のみで判断するつもりはないが、全く数学の論理を解する事が無いように思える動物も植物も、菌類・ウィルスも存在して、ウィルスは知らんが、生きている、これからも多分当分滅びないだろう。例えば、何かの手違いで、人類が宇宙から滅んで、数学を理解するものが居なくなっても、何の不自由も変化もなく、宇宙は存在し、地球の生命あるものは、存在し続ける。
そう言う意味では、数学はあっても無くても、人間以外には、何の価値も無い。
ハシビロコウ様、有り難うございます。
数学は人間が自然や摂理を現すための記号、道具だったのですが、それを現すために先を見て行くとどんどん訳が解らなくなって行き、古代の人々はそれを封印と言う形で処理した、これがピタゴラス学派でした。
でも人間が凄いのは遥か古代、メソポタミア文明期に既に三平方の定理を使っていた事ですし、微積分の原理的なものも把握していたと言う事です。
その意味では自然や発生してくる事象が数学の師匠だったと言う側面もあるでしょう。
この世界は人間の社会ですから、人間が滅びれば全て終わる、その通りです。
しかし、我々が考えるほど人間の世界は大きくはなく、殆ど意味を持ってはいない。
それゆえ、常に模索、考えながら生きて行く必要は有るだろうと思います。
コメント、有り難うございました。