「チェスター・ニミッツ・2」

ニミッツが司令長官としてハワイに立った時、彼に与えられていた軍からの作戦は、日本軍が攻めてきたら応戦しなければならないが、そうでない場合はこちらから攻めるな、と言う中途半端なものであり、友や尊敬する者を失ったアメリカ軍将校としては、「何としてもこの借りは返したい」と思う気持ちがあるのは当然であり、ここで指揮官は最も辛い板ばさみとなるのだが、ニミッツはこの場面で面白い訓示をしている。
着任早々将校クラブへ顔を出したニミッツは、そこで意気消沈して肩を落とし、あるいはやるせなさからテーブルを叩く将校たちを前にこう語りだすのである。
「諸君、オラが新しい司令長官だなや、オラは何で海軍に入ったかと言うとな、初めてエビを見たときにたまげたもんで、それでオラはエビが海の王者だと聞かされたもんで、海軍に入った」
「オラ、エビが大好物になったんで、よしそれでは海軍に入って海の王者と言う奴をつかまえて、たらふく食ってやろうと思ったんだな、これが・・・」
余りにも異様な訓示ではある。
ニミッツはもともと少しテキサス訛りがあったが、この訓示ではそのテキサスの田舎訛り丸出しで、将校たちの前で語り始めたことから、将校たちは始め何か慰安の為のアトラクションかと思ったが、やがてこうしたズーズー弁の語り口と、いかにも田舎臭い男の話にどっと爆笑がおき、拍手が起こってくる。
こうした将校たちの反応にニミッツも微かに笑みを浮かべる。
だが次の瞬間、二ミッツは一瞬にして厳しい目つきになったかと思うと、また話を続けた。
「エビは体のカラが生え変わるときは、岩の間に入ってじっとしているもんらしい」
「諸君、オラたちの情勢は悪い、それは分かっておる、オラたちはエビだ」
「今は甲羅が生え変わるのを待たねばならない、そして硬い新しい甲羅はできるだけ早く生え変わらねばならない・・・」
「戦いには時と言うものがある。そしてその時が来るまではじっと潜んで耐えなければならない時がある」
「諸君、我々の今がその耐える時であり、この時があって初めて合衆国の勝利があるのだ」
もう誰も笑う者はいなかった。
拍手すらも起こらなかったが、そのかわり将校たちは皆椅子から立ち上がり、また靴のかかとを鳴らして姿勢を正し、この新しい提督チェスター・ニミッツに敬礼した。
そしてそれから後のアメリカ軍の活躍は歴史がそれを証明しているが、破格な規模を誇るアメリカの工業は、確かにこの真珠湾攻撃の前後までは出遅れていたが、一度動き出すとその回転は素早く、後方の物資生産が軌道に乗ったアメリカは、瞬く間に真珠湾攻撃の屈辱を取り戻して行った。
1905年(明治38年)、この夏アメリカ海軍兵学校を114人中7番の成績で卒業したニミッツは、アジア艦隊の軍艦「オハイオ」に配属され、アジア方面練習航海に出たのだが、このとき横須賀に到着したニミッツたち士官候補生の代表や士官達は、「日露戦争祝賀園遊会」に招待された。
その園遊会には多くの日本の将軍、提督たちが集まっていたが、ニミッツ少尉候補生やアメリカ海軍士官が皆探し求めたのは「日本海海戦」の名将「東郷平八郎」提督の姿だった。
「日本海海戦こそ、洋の東西を問わず海戦の手本であり、教科書と言えるものだ。私の生涯はこの手本をマスターし、いつかこの手本を越える戦いをしたいと言う念願が常に有った・・・」
後年こう述懐するニミッツ、それゆえ園遊会の日、東郷提督がニミッツたち少尉候補生が座っているテントに近づいたとき、二ミッツは思わず立ち上がり、興奮して顔を赤らめながら東郷提督に敬礼すると共に、こう叫んだのである。
「東郷提督閣下、我々はアメリカ合衆国海軍少尉候補生であります。もし僅かでも閣下のお時間を頂けまして、我々に教訓をお与え下さるなら、我々の無上の光栄と喜びです」
これを聞いた東郷平八郎は一瞬立ち止まり、その長身の若者を見上げたが、この若者が後に東郷の後輩達や日本海軍を撃破する、アメリカ海軍屈指の指揮官になることは予想もできなかったに違いない。
またニミッツも将来そのような運命が用意されているなど全く考えもしなかっただろう。
しかし面白いものだ、この青年に何かを感じ取ったのか東郷平八郎は副官に何か小声で告げると、ニミッツ達のテントへ入ってきて話を始めたのだった。
興奮していたニミッツは、このとき東郷が何を話しているのかを後にすっかり憶えていなかったが、それでも東郷がテントに入ってきてくれた時の感動は、生涯忘れたことは無かったと言う。
どうだろうか、こうして考えれば随分皮肉なものではないか、東郷の精神やその作戦のあり方は、彼に憧れたアメリカ海軍の二ミッツに受け継がれ、その反対に最も東郷の作戦やその精神を学んでいなければならなかった日本海軍はこれを怠り、それゆえ日本海軍は、その元祖である東郷の精神によって敗れる事になったのである。
またニミッツと東郷平八郎は、どこかで合理的な説明ができないような縁があったようだ。
1934年、ニミッツがアジア艦隊旗艦「オーガスタ」の艦長に就任していた際、やはり偶然に日本に寄港したおり、このときは東郷平八郎の「国葬」が行われていて、この国葬にもニミッツは参列している。
                       「チェスター・ニミッツ」Ⅲへ続く
T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 山本権兵衛が、海軍軍務局長の時、海軍強化のためにリストラその他をしたとき、リストにあった東郷平八郎を退役させないで、海軍大臣の時に、彼を連合艦隊司令長官にしました。明治天皇から、理由を問われて「彼は運が強い男だから」と言ったそうですね。
    それで、東郷は元帥になり、生涯現役。航空機時代が来て、近代化を進めて行かねばならないとき、大艦巨砲主義から抜け出せない伝統的な後輩から、担ぎ上げられて、結果的に近代化を阻害した形になり、結果無用の長物となった大和、武蔵を建造することになりました。艦名が国名ですから、空母の信濃は戦艦からの設計変更だったようです。

    人の巡り合わせは、不思議なもので、いろんな意志が受け継がれることも、沢山有るでしょう、安売りの民主主義じゃ達成出来ないことも多い気がします(笑い)

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      こうしてみると敵と味方と言うものは不思議なものですね。本当は敵も味方もその立場だけのものかも知れない・・・。
      東郷にあこがれたニミッツに拠って東郷の思想が受け継がれ、逆に体制に拠って東郷の思想を失った日本がニミッツに海戦で敗退する。この意味では中国古典思想や兵法を最も多く継承しているのが中国ではなく日本である事と良く似ています。戦闘は航空戦になることを示したのは日本であるにも拘らず、どこかで日本は古典的な思想戦争から抜け切れず、これを合理的に解釈したアメリカが大量に戦闘機を作って海戦を征していった。「目の前の現実を見よ」は孫子の時代から言われている基本的な軍事思想なのですが、これを忘れると名誉や概念の為の戦争になってしまう。「誰が何の為に、どこまで戦うのか」は軍事作戦の基本中の基本で有り、戦争に勝つ為の戦争は絶対に勝てない。今の日本政府や国民を見ていると、この最も陥ってはならないところへ落ちているように見えて仕方ない。国家の繁栄はその国家の名誉が高まる事ではなく国益に有り、この国益とは何か、すなわち「人」であり、国家繁栄の概念は4000年も前から人の繁栄に他ならない。国の名誉を守っている間に幼い子供が餓死し、親の貧困に引きずられ歪んだ心にしか育たねば、名誉を守りながら国は崩壊する。

      コメント、有り難うございました。

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