「地球環境と言う幻想」

「閉じた世界に措けるエネルギーの総量は変わらない」

これは「エネルギー保存の法則」または「熱力学第一法則」とも呼ばれるが、この原理は質量と言う概念にも等価性を有し、質量の場合は「質量保存の法則」と呼ばれる。

エネルギーは多様な形を持っていて、例えばヤカンで湯を沸かした場合、水を熱して沸騰した湯に変化させるための火力は空気中の酸素を消費し、そして熱を発生させ水を沸騰させるが、この時最初はガスや電気としての形を持っていたエネルギーが熱に変わって、水が湯に変化するのであり、ここで水を湯に変化させるために使われた元のエネルギーと、湯を沸かすために熱に変えられたエネルギー、水の温度上昇に変化したエネルギー、消費され酸素が二酸化炭素に変化したエネルギーなどを全て集め、その比較をするなら、エネルギーの総量は湯を沸かす以前の状態と、湯が沸いた状態でも地球上に措いては等価である。

つまり特定の閉ざされた空間、地球などがこれに該当するが、ここで存在するエネルギーの総量は常に一定であり、変化しない。

しかしエネルギーは他のエネルギーに変換されることを繰り返すと、閉じた空間の中で拡散、分散を起こし、その意味ではエネルギーは消費される、科学的に言えば、他のエネルギーに変換されるたびに人類が使かえるエネルギーとしては劣化していく。

人間は基本的には炭素ユニットであり、これ自体がエネルギーの塊でもあり、同時に周囲に放出されるエネルギーの源でもある。

従って人類が繁栄すると言うこと、人口が増えると言うことは、同時に他のエネルギーがより多く、人類と言う形のエネルギーに変換されていると言う事になる。

そしてこうしたエネルギーの質が、人類と言う形態をどれくらいの総量で保持すべきかと言う事は、その炭素ユニットエネルギーが決定権を持たない。

全ては地球、宇宙と言う環境こそがその決定権を有しているのであり、こうしたことから言えることは、現存する炭素ユニットエネルギー、すなわち人間は、実際に存在している数をして常に適正な人類の総人口と言えるが、この炭素ユニットは、一つの個体が常に他のエネルギーを取り込んでエネルギー個体を保持するため、そこにエネルギー変換を増大させる現象を起こしていく。

ゆえに炭素ユニットエネルギーの増大は、「熱力学第一法則」からしても、必ず限界点を持っていて、そのときはエネルギーの質が拡散され、炭素ユニットが抽出困難なエネルギー形態の増加と言う結果を生み、炭素ユニットエネルギー塊の総量は、減少期を迎えることになる。

このことから人類に関して言うならば、そろそろ地球のエネルギーが人類に変換され、それが保持される限界点が訪れている。

これから以後人類は、20年ほどは増加傾向にあるが、これは劣勢環境に措ける生物学的システムよって、本能的な増殖を起こすからであり、この意味に措いては本来人類が基本とするべきエネルギー変換以下のエネルギー変換環境での人間の増加、つまりは乾燥地帯や、生活環境の厳しい地域での人口増加の可能性は有るが、その他の地域では全てに措いて人口は減少していく可能性の方が高い。

これは勿論生物学的な仕組みとしてもそうなのだが、エネルギー変換の点に措いても整合性を持っている。

豊かな暮らしはより多くのエネルギー変換、エネルギー劣化をもたらし、本来は2人で変換すべきエネルギーが1人で変換される、場合によっては1人で本来の10倍のエネルギーが変換されるからであり、この意味では変換されるべきエネルギーの総量に限界点が有る限り、どこかでは新しい炭素ユニットの誕生が阻害されることは正しい。

そして人類はどうやら漠然とだが、こうした自然の摂理に対して危機感を持つようになったが、そこで出てくるものは「地球環境」と言う言葉である。

しかし近年叫ばれる「エコ」と言う言葉は「地球」を概念しているようで、実は人類の事しか考えられておらず、しかもその観点は大変狭義なものでしかない。

電気自動車やハイブリッド車はエコな感じがするが、しかしこれを新たに生産するためのコストは、やはりどこかでエネルギーなのであり、CO2なのである。

また電気はエコかと言えば、これも火力発電では大量のエネルギーが変換され、原子力発電に至っては、これを制御するために膨大なエネルギーが変換されている。

では風力発電はと言えば、これも同じように建設のためにエネルギーが変換され、そしてその設置場所のエネルギーを変換させ、さらには維持に対しても多くのエネルギー変換が為され、結果として「熱力学第一法則」から言えば、それは人間の目にはエコに見えながら、実質は何も変わっていないのである。

同じことはソーラー発電でも同じことが言え、ソーラーシステムは突然空間から発生するのではなく、どこかのメーカーが作っているのであり、その製作時に出るCO2の総量と、他の例えばお金を出して買った電気のために変換されたCO2の総量は、それほど大きな変化がなく、また料金的にもソーラーシステムの耐用年数が20年なら、それを維持するコストと電気料金を払い続けるコストは大差がない。

更にこれはエコキュートも同様で、初期に支払う金額と、耐用年数を考えるなら、決してお徳でもなければ環境に優しいわけでも何でもないのであり、もっと小さな事で言えば、電気の消費を抑えてキャンドルナイトで過ごす運動も、その蝋燭はやはりどこかで作られたものであって、そこではCO2は排出されているし、蝋燭を買いに行くために自動車を使った場合は、当然逆効果となる。

残念なことだが、現在世界で騒がれている「地球環境に優しい」や「エコ」の概念はこの程度でしかない。

そこにあるものは、自分の目の届く範囲ではゴミがなくなったと同じレベルなのであり、結局は資本主義の拡大に引きずられた幻想でしかなく、そこには地球のことなどは全く考えられず、個人がその気分に浸っているだけの現象が起こってきている。

自分の部屋からゴミを出してしまえば、そのゴミは消えてしまうのではない。

それはどこかへ持って行かれて、そこに積み上げられるのであり、CO2も同じことだ。

そしてそのゴミは元は何かと言えば、食料だったり家電製品と言う人類が変換し易いエネルギーだったものだ。

しかし人間が消費してエネルギー変換させゴミと言う、人間が次にエネルギーに変換しにくいエネルギーに変換させてしまい、結果として人間は、こうした人間が変換しにくいエネルギーの増大によって追い込まれる事になるが、それでも地球全体のエネルギーの総量は何も変わらず、地球は人類など生存しようが滅びようが全く関係がない。

人類はこのことをもう少し謙虚に考えて、言葉や行動を慎む必要があるかも知れない。

我々は存在しているのではなく、存在が許されているに過ぎない・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。