「あー苦しかった」・Ⅰ

昭和40年後半の「文部省調査資料」の枠外に少し面白い話が書き記されている。

それによるとこの話は三重県員弁郡梅戸井村で発生したらしいが、この梅戸井村にある造り酒屋では、ちょうど酒の仕込みの時期を迎え、近県から10人ほどの若い衆が雇われて住み込みで働いていた。

遊びたい盛りの同じような年代の若者のことである。

昼間、仕事を追えた彼等は夜になると手持ち無沙汰になってしょうがない。

ある日のこと、「おい、今夜は遊びに出かけようじゃないか」と言う事になり、4人が昼間からしめし合わせ、暗くなるのを見計らって、こっそり造り酒屋の人夫小屋を抜け出し、少し離れた長者村へと繰り出した。

そして女たちを相手に散々遊んでいた若者達、やがてのこと気が付けばもうすぐ午前様になる時刻である。

流石に夜中2時を超えてしまっては朝の早い仕事には堪える。

「もう帰ろう」と言う事になり、「また来てね」と手を振る女たちに後ろ髪を引かれながらも、帰途についた。

酒が入って寒さも何のその、上機嫌の若者達、夜中にも拘らず「ここは天下の大道」とばかりに、道の真ん中を大騒ぎしながら歩いていたが、もう雇われている造り酒屋まで百メートル程と言うところまで来たときの事だった。

ふと若者の一人の眼前を何かがゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。

「んっ、何だ」、若者は思わず目の前を通り過ぎていたものの正体を確かめようと慌てて目で追ったが、その視線の先には何と青白い人魂がふわふわと浮いていたのだった。

さあ、それからが大変だった。

夏の夜、それも1人で歩いているのなら、恐くてこちらが逃げ出さなければならないところだが、酒も入ってこの世に恐いものなど何一つあろうか・・・、と言う若者達の事である。

「おー、これは珍しい、捕まえよう」と言う事になり、みんなで人魂を追いかけ始めた。

するとその人魂はいかにも焦った風情でヨロヨロと逃げ始め、勢いづいた若者達は更にそれを追い回したが、やがてのことその人魂はやっとの思いで酒蔵に辿り着いたかと思うと、何と若者達が寝泊りしている人夫小屋の、その戸の隙間からふーっと中に入っていってしまったのである。

「おい、どうやら追い詰めたぞ」、そう大騒ぎして人夫小屋の戸を開けた若い衆、しかし予想に反してそこには人魂の姿はなく、代わりに炊事場で居眠りしていた女中が驚いて飛び起き、こう言うのである。

「あんた達、よくも私を追い回したわね」

「あんた達の夜食の支度をして待ってたけど、一向にあんた達は来ない、そこで私はどうやら居眠りしたしまったらしい」

「そしたら夢を見ていて、夜道を歩いていたら若い男達に追い回されて、やっとの思いで逃げ帰ったと思ったら、あんた達の大騒ぎで目が醒めた・・・」

「ああ、まだ息苦しい・・・」

「へっ・・・?」

若者達は思わず顔を見合わせた。

どうやら若者達が追い回していていた人魂は、居眠りしていた娘から抜け出したものだったと言うことらしかった。

「あー苦しかった」・Ⅱに続く

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。