「拡大相互確証破壊戦略」

1960年代から現在に至るまでのアメリカの相互核抑止戦略には、その初期段階に「相互確証破壊戦略」と言う核兵器に対する思想があり、これは核戦略の原型となるモデルだが、「MAD」(mutual assured destruction)と呼ばれ、核による抑止力や核兵器による均衡をして「平和」と言う状態が思想されたものだ。

相互確証破壊戦略の原則はその「均衡」によって全てが集約されるが、例えば他国から核兵器による攻撃を受けた場合、自国に残された核兵器で、相手国に対して耐えられぬ程の大きな損傷を与える事が可能な能力を「確証破壊能力」と言い、こうした「確証破壊能力」を敵対する国家同士、相互に保有することをして、この戦略の要旨は完結し、相互の国家はこれを担保に互いの国家に対する相手国の核兵器使用を抑止する条約、若しくは不文律の密約を締結する。

具体的に言うなら、敵国から核兵器による第一撃を受けた場合、その一撃を受けながらも残された核兵器による第二撃、つまりは報復攻撃だが、この報復攻撃は敵の都市にその照準が合わされていたことから、結果としてこの戦略は敵の都市人口を人質として、核兵器使用の抑止が保たれると言うあざとさを持っていた。

それゆえ、相互確証破壊戦略が成立する要件は、双方の報復核戦力が敵の第一撃より大きい事、即ち第一撃で全ての核戦力を失うほど脆弱ではない核戦力を双方が有していることがまず第一条件となり、その一方で双方の都市人口が敵の報復攻撃に対して脆弱である、言い換えれば報復攻撃は大都市を狙わないと言う条件が必要だった。

2国間であればそのいずれの国であっても、第一撃は都市部の攻撃ではなく、軍事施設に対する攻撃であること、またこの際報復攻撃は大都市を想定しない、これが相互確証破壊戦略の要旨だった訳だが、果たしてこれが軍事作戦として、もし実際に核兵器による攻撃が始まった場合も成立し続けたかと言えば、それは難しかったかったに違いない。

ゆえにこうした相互確証破壊戦略は、実際の戦略と言うよりも、相互に核戦略に対する思想の共有が計られたと言うのが現実の姿だろう。

しかし幸いなことに、実際には例えばアメリカと、既に解体してなくなってしまったが、ソビエト連邦の双方で共有されたこの思想による核戦争は発生しなかった事から、こうした考え方は有効なものとして、現代に受け継がれ、その影響で今も核兵器に対する抑止力神話が残っているのだが、実際には核の抑止力は幻想にしか過ぎない。

1960年代、70年代と比較するなら、現在世界各国で保有されている核兵器の命中精度、またその多元的コントロール技術は、自転車とジェット機以上の差がある。

つまり、もはや核兵器による第一撃は、敵国を完全破壊することが可能となっているのであり、ここでは報復としての第二撃は存在できなくなっている。

もし相互確証破壊戦略の定義が最終的に都市人口を人質とするものなら、既に第一撃が都市人口も含めた、敵の国家そのものの消失となってきているのである。

従って現代社会に措いて、相互確証破壊戦略は成立しない。

だが未だに「核抑止力」が叫ばれる背景には、相互確証破壊戦略の亡霊が生きているからである。

これは今の段階では推測にしか過ぎないが、拡大相互確証破壊戦略、若しくは発展的相互確証破壊戦略に関する疑惑が存在しているからであり、将来的にアメリカは中国と核兵器に関する戦略を共有しなければならない事から、この中でどの人口を核兵器の人質とするかの素案に、中国もアメリカもそこには自国の名前が存在していないのである。

おかしな話だが、アメリカは中国を将来的には敵対するものと定義しながら、そこで相互確証破壊戦略を想定しながら、互いの国の名前が無いと言うことはどう言う事か、つまりここで推し量られることは、核兵器の人口に関する人質の部分を、アメリカも中国も自国に置かず、第三国に置きながら、相互確証破壊戦略を結ぼうと言う素案なのではないかと言う疑いが持ち上がってくる。

1980年代、科学技術の発展によって精度が高まった核戦力は、もはや第一撃によって敵の軍事施設を壊滅させるまでに高まって行ったが、こうした背景から発生してきたものは「限定核戦争」と言う思想であり、実は1980年代後半からのアメリカはソビエト連邦の崩壊によって、世界から全面核戦争は消失したものと定義し、小さな紛争や誤爆による核戦力対策しかしてこなかったのだが、2007年ごろから、どこかでは中国の核戦力を意識し始め、そこで復活して来たのが「相互確証破壊戦略」だと言われている。

つまりここでは中国とアメリカ双方が自国ではない、同盟国を担保にして核戦争抑止、核兵器増強を相互に抑止しようとしているのではないかと言う疑いが発生してきていて、例えば中国と日本やアメリカとの緊張が高まった場合、まず北朝鮮が韓国か日本に対して核兵器を使用し、これに対してアメリカが北朝鮮に対して応分の限定的核戦力攻撃をすることを想定し、これを担保に相互確証破壊戦略を組むと言うような茶番劇が、完全否定できない状況になってきている。

アメリカは結局、北朝鮮の核開発を止めることも、制限する事もできず、それでも放置しなければならない背景には、既に条約化しなくても中国とアメリカには、相互に確証破壊戦略的思想が存在し始めていたことを意味していたのではないか、またロシアとイランの関係に置いても微妙にそうしたニュアンスが感じられ、そしてロシアと中国との連携である。

もしかしたら国際社会は、その「経済の時代」が終わったのかも知れない。

10年、20年と言う単位で世界を見るなら、そこにはもはや経済ではどうしようもない現状が横たわっているように思えてならない。

石油を始めとするエネルギーの問題、またこれから恐らく大変な問題となってくるだろう「食料問題」を鑑みるなら、そこにはもはや経済と言うより、力の支配しか対抗できないような国際社会の在り様が否定できないのであり、しかもそれはもう始まってきているのかも知れない。

そしてそこでは小さな国が核を持とうが持つまいが、大きな力の支配の前には何の効力も持たない現実が訪れるかも知れず、その場合「核」はもう小さな国にとっては「抑止力」とはなり得ず、「抑止力」は大国のみのものとなっていく、いやこれまでもそうだったのだが、そうしたことが更に鮮明になっていくような、そんな予感がする・・・。

10年後に滅亡するとしたら・・・・。

日本は今、最大の危機にして最大のチャンスを迎えているかも知れない・・・。

[本文は2011年2月6日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。