「常温核融合」

一般的に「核融合」と言えば、高密度、高温高圧条件下に措いて原子核と原子核をぶつける、いわゆる「熱核融合」のことを指すが、この核反応からエネルギーを取り出そうとする必要性から「核融合炉」が生まれ、現代物理学の歴史と、第二次世界大戦に措ける軍事技術開発の急激な進歩によって研究が始まった。

従ってこの概念は「限定された太陽」とも言えるが、実は太陽をモデルとするなら、人類は未だに熱核融合技術をその手中に収めているとは言い難い。

つまり人類は太陽のように安定した熱核融合を維持することができていないのであり、制御方式もせいぜいがその実績は40年足らず、しかも偶然性に頼った制御方式でしかない。

これに対して1989年、アメリカ合衆国・ユタ大学がとんでもない実験結果を公表した。

それは「常温核融合」の存在であり、これは物理学の世界では考えられないことだが、例えば気温25度の室温でも起こる核融合反応」のことだ。

通常、核融合の条件は高温、高密度、高圧力と言う条件が揃わなければどうしても起こり得ない。

ユタ大学が行った実験の内容は非常にシンプルなものだった。

重水中にプラチナ製の陽極と、パラジウム製の陰極を入れて直流電流を通電すると言う、どこかの中学校で行われている「水の電気分解」実験のようなシンプルさである。

それゆえユタ大学がこの実験によって「過剰熱」、つまりは熱エネルギーの存在を確認したと言う実験結果は、通常の化学反応によるものではないのかと言う疑惑を持たれ、さらには物理学の常識を覆すこうした理論は、当時のアカデミズムやジャーナリズムからも徹底的に叩かれてしまう。

またまずいことに当時ユタ大学は経済的に苦しく、そこでこうした売名によって資金を集めようとしたのではないかと言う話まで、まことしやかに囁かれるようになってしまう。

しかしこうしたユタ大学の実験から以後、世界のあちこちの研究機関から、この実験の追試実験データが出始め、その中には「過剰熱」(熱エネルギー)が確認されたと言う実験結果がぽつぽつ現れ始めていた。

現在までに実験された「常温核融合」の実験内容は、基本的には「電解実験」に近いことには変わらないが、電源がパルス電源になっていたり、実験容器内の温度や圧力を上げる方式、さらには真空容器に重水素ガスを詰め、内部に置かれたパラジウム片に通電する方法などに進化しており、実は日本でも多くの大学がこの研究を進めていた。

だが、こうした在り様にも拘らず、その後もこの「常温核融合」に関しては否定的な意見と肯定論が拮抗し、基本的には物理学上の否定が、多くのジャーナリズムの否定と重なって、インチキだとする意見が大勢を占めるようになる。

無理もない、常温で、例えば室内でも核融合が起こるとしたら、「核融合炉」がなくても、室内でも小さな原子力発電所を作る事ができるからだ。

また現実には常温核融合の否定は、物理学界とジャーナリズムでは、それぞれが持つ否定概念に誤差がある。

実はユタ大学がこうした実験結果を公表して以降、宇宙から地球に降り注いでいる「宇宙線分析」の分野で、この「宇宙線」に含まれるミューオンによって、水素原子の常温核融合が発生していることが観測されたのである。

ゆえに現在を語るなら、常温核融合を物理学は否定できないが、これを人間が作り出せるかどうかと言えば、それはできないだろうと言うのが物理学界の総意となっている。

この地球には実際には存在しても、それを科学や物理学が説明できない現象や事実は沢山ある、いや厳密には説明し切れない現象の方が多いに違いない。

常温核融合についても、自然界には存在できても、それを人類が作り出せないものとする、これが物理学の常温核融合の否定である。

これに対し、ではジャーナリズムの否定とは何かと言えば、一言で言うなら実効否定である。

もし常温核融合が存在したとして、更にはそれが実験でも作り出せたとしても、問題はそのエネルギーの小ささにある。

通常の原子核融合反応から得られるエネルギーは、太陽の0・0000某パーセントと言う膨大なエネルギーであり、これ比べれば常温核融合反応など、蚊が発している熱の0・000某パーセントにも及ばないものでしかない。

そんなものが何の意味が有ろうかと言う、これがジャーナリズムの常温核融合の否定となっている。

即ちジャーナリズムの否定は「経済効果的」な否定なのだが、残念なことに科学や物理学の世界でも、こうした「全ては金なり」の傾向から逃れることはできていない。

世界各国の研究機関は自然界には存在できても、人間がそれを作り出せないとしたら、それが何故作り出せないのかを研究しなければならないはずであり、そこから新たなる発見が生まれてくることも有るはずだ。

しかしこうした研究にはどの国の政府も金を出さず、そこでこうした研究は、研究者が自費で資金を捻出しているケースが多く、為に「常温核融合」が実験で得られるとする議論は、それが現在に至っても肯定も否定も確定していない。

常温核融合は確かに今は金にならないかも知れないが、その未来的な価値は計り知れないものがあり、こうした重大な研究に関して議論が提起されたにも拘らず、その後おざなりになっている事実は許し難いものがある。

理論から外れてしまうことは否定して終わることが科学だろうか。

分らないからそれを探るのが科学の原点ではなかったか、ゆえに不思議なことや、説明の付かないことが有れば、それに夢を膨らますのが研究者と言うものではないのか。

アカデミズムの中で権威と化し、それで自然界で起こっているさまざまな現実を否定する在り様の科学は何かがおかしい。

人間は実際に存在する現実の前に謙虚でなければ、その内何も見えなくなるのではないだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。