「陰徳」

治於神者 衆人不知其功 争於明者 衆人知之   「墨子」

(神に治むる者は 衆人その功を知らず 明に争う者は 衆人これを知る)

昔、中国の「魯」(ろ)と言う国に「公輸般」(こうしゅはん)と言う天才的な技術者があり、彼はその通り名を「公輸子」と言ったが、「公輸子」はまた大変な発明家としても広く知られていて、ある時彼は「楚」の国を訪れたことがあった。

だが当時「楚」の国は「越」(えつ)の国と戦争をしていて、長江が主戦場となる船戦ではいつも楚の国が苦戦していたため、楚王から「何か良い新兵器を作って貰えないだろうか」と依頼された公輸子は、早速「鉤拒」(こうきょ)と言う道具を開発し、これによって船の進退は以前よりはるかに迅速になったが、また公輸子はほんのお遊びで竹と木を使って鳥を作り、それを飛ばしたが、その鳥は何と3日も地上に落ちてくることは無かった。

この公輸子の在り様から、すっかり公輸子を信頼するに至った楚王、今度は戦に備えて大掛かりな「城攻め」の方法は無いものかと相談する。

そこで公輸子が開発したのが「雲梯」(うんてい)と言う、今で言うところのハシゴ車のようなものだった。

この少し以前、紀元前500年頃までは戦争にもルールがあって、敵と言えどその城壁を越えて攻めることは許されなかったのだが、戦国時代のことであり、こうして楚と越が戦っている頃には、すっかりそうした古式ゆかしい戦場信義も無くなっていた。

それゆえ開発された、このような城壁を乗り越えて敵の城を攻めることが可能な、「運梯」の出来栄えに気を良くした楚王は、この「雲梯」を使って、次は小国「宋」を攻めると周辺に豪語し始める。

この話はたちまち「魯」の国にも広がり、噂を聞きつけた「墨翟」(ぼくてき)、つまり墨子は大慌てで楚の国へと駆けつけるが、これには理由がある。

墨子の信条は「この世から戦をなくする」ことであり、ゆえに軍備の弱小な国の為に城の防衛をもっぱらの才覚とし、ついにはこれまで担当した城の防衛では、一度たりとも落城を許さない城防衛の天才だったからであり、これに対して「公輸子」の作った「雲梯」などが使われるようになれば、一挙にこれまでの城防衛の概念が崩壊させられかねない・・・。

楚に到着早々、公輸子に面会を求めた墨子、しかし公輸子はこれを拒否し、仕方なく墨子は楚王に面会を求め、貧しい「宋」など攻めてみたところで、何も益の無いことを主張した。

しかしもはや「雲梯」に心を奪われてしまった楚王は、既に「宋」などどうでも良く、ただ「雲梯」と新兵器を使って見たくてしょうがない。

さても難儀なことよ・・・。

暫く考え込んだ墨子、やがて妙案を思いついたが、それは現在で言うならば戦場ゲームだった。

いわゆる戦場シュミレーションをやろうと言い出すのである。

自分の帯をといた墨子はそれで城の城壁を作り、木切れを楼閣代わりにその真ん中に置く、これに対して公輸子も小さな木片を持って城攻め開始である。

仮にも一国の王の面前で、大の大人が城攻めゲームとは随分可愛らしい話だが、今の時代と比して、随分健全な時代で有るとも言えようか・・・。

公輸子は持てる知力を尽くして城攻撃を始め、あらゆる攻撃を打ってくる。

しかしこうした攻撃に対し、墨子が理論上全て撃退して行くに付け、公輸子はついに持っていた木片を放り投げ、「私の負けだ」と敗北を認めるが、よほど悔しかったのか「最後の一手がある」と言い出す。

「最後の一手・・・」、墨子はここでハッとする。

なるほど公輸子は確かに戦場ゲームでは負けたが、この場で墨子を殺せば実戦では既に墨子がいない訳だから勝利できる。

「そう言うことか・・・」

墨子は公輸子が自分に対して殺意を抱いていることを知り、楚王にこう告げる。

「公輸先生はもしかしたら、この場にて私を殺害することをして、宋との実戦では勝利することをお考えやも知れません」

「されど、既に私の配下は、私の作った雲梯防御道具を持って、宋の城壁の上で待機しています」

「ですから私を殺しても宋の城は陥落しないばかりか、もし実戦で雲梯を使ってそれで負けてしまえば、これまでその正体が知らしめられないがゆえに、他国に対して与えていた脅威も霧散してしまうことになります」

「どうぞ、今一度宋を攻めることはお考え直しください」

これを聞いていた楚王、ようやく事の真意を悟ったのか、墨子に「宋」を攻めないことを約束するのである。

そして架空の戦場で勝利を収めた墨子、彼はまた急いで帰途に付くが、その途中「宋」に立ち寄ったおり、間合いも悪く激しい雨に遭う。

仕方なく雨宿りの為に僅かに軒先でも借りようと、「宋」の城門をくぐろうとした時の事だった。

「怪しい者だな、門の中には入ってはならん」

門番は容赦なく墨子を雨の中へと追い立てたのだった・・・。

誰が「宋」の国を救ったのか、そのことを宋の人間は誰一人として知らない。

それゆえ墨子は雨宿りさえさせてもらえなかった。

だが、誰も知らないはずの墨子のことを、2400年後に生きる私がしっかり知っていて、「なるほど」と思っているのである。

「陰徳」とはこうした在り様を言い、冒頭の文を訳するならこうなる。

「人に測り知れないように事を為す者は、人はその功績に気が付かない。だが人の目の届くところで騒ぐ者は、人には良く分かる」

人間が為す仕事や良い行いは、常に人目に触れるところだけで為されるものではなく、その多くは人知れず為され、それがどこかでは多くの者の役に立っている場合もある。

そしてそうした場合、一抹の寂しさも感じてしまうかも知れないが、嘆くには及ばない。

誰も知らない墨子の思いを2400年後の私までもが知っている、この在り様はなぜか、例え誰も知らなくても「天」がこれを知っている、これで充分では無いか・・・。

人の運命など偶然に次ぐ偶然で発展していくものであり、そうしたものの中にはやはり「天の采配」と言うべきものをどこかでは感じざるを得ない。

ゆえに「天が知る」事であれば、それはいつかどこかで「采配」してくれるものなのではないだろうか・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。