「鉞(まさかり)を研ぐ子供」・Ⅱ

此度東北を襲った大地震にあって、我が脳裏に真っ先に思い浮かんだのが、「柳田国男」のこの話であり、また関東大震災の折の記録だった。

この二者は互いに、そこに共通点を求めるなら「子供」がその主体となるが、全く別の記録なれど、どこかで同じ感じがするのである。

これは婦人公論大正12年10月号に掲載された記事からだが、関東大震災発生の3日後、横浜で恐らく30前後だろうか、泥だらけの浴衣姿の女が疲れ果てた感じではあるが、そのどこかでは興奮した様子で歩いていた。

女はやがて山の手の避難所まで辿り着くと、そこで誰かを探しているようにも見えたが、その人ごみの中を歩く2人の子供の姿を見つけると、「あっいた、いた」と言って子供達に走りよった。

なるほど震災で離れ離れになった母と子供が再開できたのか・・・、と周囲にいる誰もがそう思った。

しかし子供達に近付いた女は、次の瞬間そこに落ちていたレンガを拾うと、何と子供達の顔を滅多打ちにして殴りつけるのである。

カラカラと乾いた笑い声を上げながら執拗に子供達を殴りつける女、うずくまる子供たち、女は完全に狂ってしまっていたのである。

またやはり関東大震災発生の翌日、これは東京駅の昇降口を歩いていた人の記録だが、大勢の人が混乱して右往左往するその足元に、たこ糸で巻かれた紙包みが転がっていた。

何だろうと思ってそれをよく見てみると、紙の破れ目から、生後幾らも経過していない嬰児(えいじ・生まれた直後の子供)の片足がそこからはみ出していたのである。

しかも人々は激しくそこを行き来しながらこれを見ることも無く、紙に包まれた嬰児を蹴飛ばしながら通り過ぎていた。

そして2011年3月27日、宮城県石巻市渡波の山道で生まれた直後の女児の遺体が発見された。

2011年3月11日に発生した東北の地震では、この地区は津波被害地区からはかなり離れた場所にあり、従ってこの女児が津波によって死亡したとは考えにくい。

尚且つこの女児はへその緒が付いたままの状態で裸のままだったこと、付着した血液がまだ完全に乾いていなかったことから、生まれた直後に捨てられたと見られている。

どんな事情が有ったか分らないが、今回の地震によって生まれた子供を育てられないと思ったか、はたまた地震が起こる以前から生んではいけない子供を身ごもり、地震を幸いにして捨ててしまったか、我々はそれを推し量る術も無いが、子供が生まれた直後に親によって捨てられた事実は変わらない。

実は地震などの災害の最も恐ろしいところは、その災害もさることながら、それから後に起こってくる経済的な行き詰まりによってもたらされる現実かも知れない。

親を失った子供、ローンを組んでやっと手に入れた家を失った者、職場を失った者、彼等の眼前に広がる現実は並み大抵のものではない。

日本はこの東北の地震によって何か大きなものを失ったかのように見えるが、その実東北の地震以前から「何か天変地異でも起こって」と思う人間のいかに多かったことかを知るなら、そこには天変地異でも来なければ、自身の破滅の近かった者がどれだけ多かったかと言うことであり、彼等は大地震の影に隠れて救われた場合も存在し得る。

しかしこうして地震による被災も、地震発生の以前から抱えていた破滅も、結局はその当人の努力では如何ともし難いものであったなら、それはやはり天の為せるところとする以外に無く、我々は彼等彼女等を責めるに資する者とはなり得ない。

子は親を思い、親は子を思いながらもその生活に行き詰る現実は、いつ如何なる時代も無くなる事は無く、それは貧しい時代ほど多くなるが、人はこれを全て救うことはできない。

経済的には壊滅状態に近かった日本経済、その上に今回の大地震と原発事故である。

「頑張れ」「希望はある」の言葉の届く者も勿論あろう。

しかしこうした言葉が虚ろにしか聞こえない者も必ず存在し、それらの者は一線を越えてしまうかも知れない。

そして我々は彼等を全て救うことは恐らく叶うまい・・・。

それゆえ我々は一線を越えた彼等彼女達を、一様に犯罪者として憎んではならない。

ただ天に向かって「この親と、この子に何とぞ慈悲を賜れ」とひれ伏すのみである。

[本文は2011年3月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。