「不如無知・Ⅱ」

小人の謙虚と大人の謙虚にはおよそ対極的な差がある。

小人の謙虚には裏があり、二面性があるもので、例えば小さな町の商店主なら、店にいるときはまことに平身低頭なのだが、それが商工会の集まりともなれば、「俺こそは・・・」になってしまう者がいる、あの空虚な謙虚さである。

だが大人ともなればそうは行かない、およそ会う者全てに謙虚でなければ、それは大きな仕事をなし得ない。

ゆえに小人ほど傲慢になり、大人ほど謙虚なものなのである。また貧しきものはそれを隠そうとする。

それゆえ本来は無意味かつ、身分不相応な「人並み」を他人に対して示そうとするが、そんなことをしている時間があったら、しっかりと働き、それを蓄えるのが本当の意味での貧しさの脱却となるのであって、これは心の貧しさ、知識の貧しさも同じである。

いわんや、心貧しきものほどそこに「徳」を見せようとし、知識のない者ほど知っていることを示そうとするものである。

餓鬼とはそうした名の鬼のことではない。

幾ら食べても、眼前に山のように食べ物があっても「まだ足りない」「まだ足りない」と思うその心の浅ましさを指したもので、言わばこれは状態を示しているのである。

だからこの意味に措いては人間世界の全ての場面で「餓鬼」は存在し、それは人から愛されたいも然り、金が欲しい地位が欲しいも然り、人から良く思われたいもまた然りだ。

高価な外国製のスーツに身を包み、黄金の時計をしている者の自信は極めて浅くて脆い。

なぜならこうしなければ信用がなかったり、自信がないのであれば、それは金を持っていると言う状況が、表面上通用する世界だけのものだからであり、決してその人物が敬服されているのではなく、「金」に対して人が服従しているに過ぎないからである。

同様に他人から評価を得ようとして頑張る者の、その評価を何に使うのかが「自己満足」や「自己顕示欲を満たす」である場合は、そこに存在するものは容赦のない「餓鬼の道」となる。

人から褒められたから、反対に批難されたからと言って、それで自分の何が変わるのかと言えば、何も変わらず、これが尊敬された、軽蔑されたからと言って何が変わるものでもない。

人の怒りや、不満と言うものは感情であり、所詮は相手が謝るか、自己主張が通るかで消失してしまうものだ。

だが言葉で人に勝ったとしても、そこから生まれるものは、もしかしたら相手の「恨み」かも知れず、「敵意」かも知れない。

散々時間を使って、自分はすっきりするかも知れないが、そこから生まれるものが、およそ自分の望むものとは逆のものでしかないなら、それは無駄以外のなんでもなく、未来に措ける禍根でしかないとしたら、自分の気がおさまらない事くらいは目を瞑ろう、また人のことを詮索して、そこから更に悩みが増えるなら、知らずにいた方が無駄に苦しまずに済む・・・、これが「不如無知」と言うものである。

そしてこれが決して人間的「徳」ではなく、利益の「得」の為としているところに、この言葉の深さがある。

私も呂蒙正ではないが、了見が狭いゆえ、知って無駄に苦しむのは辛いのではないかと思う・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. ESモースが、土器探索の時、八代の知事と貧しい猟師の家を見付け:-謙譲に飯を乞うた。すると猟師と彼の妻は丁寧に、そして取り乱した様子は少しもなく、我々のために何か食う物---それは色の黒い飯と骨のような硬い小さな乾し魚何匹かとであった---をしたく仕始めた。彼らは知事という高貴な人の存在を意識し、また彼らの屋根の下に「外夷」を入れたことは一度もないのだが、食事の貧しいことに就いて奴隷的な申し訳を一切せず、単純な品位を以て、歓待と言うことが必要とする所を行った。知事の態度は精麗そのものであった。知事はこの貧しい食事を如何にも美味そうに食い、お辞儀されれば必ずお辞儀し返した。私は彼がこの簡単な食事を明瞭に楽しむことによって、これらの貧しい人々を欣喜させた遣り方を、如何に描写して良いか、その言葉を見いだすことが出来ぬ。:-

    飾らず、心からのもてなしに感謝すれば、お互い愉快で、苦しむことは無い様な、自分の好きなお話しの一つです。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      良い話です・・・。
      解っている者と解っている者同士の在り様は静かで美しい・・・。
      自身の立場に卑屈にならず、自身の立場に驕らない。この事は真逆のように在りながら同じ事であり、昨今日本人が失った最も大切な「日本」だったやも知れません。
      振り返って今の日本人を見ていると、敢えて不幸を探しているようなもので、知事一行が訪れたとして、貧乏くさい事は出来ないと考え、近くのスーパーへ買い出しに走り、出来合いのものを並べてもてなし、知事も「な~んだ、スーパーの刺身じゃないか」と思ってしまう。ここから生まれるものは表面上の笑顔とは裏腹なものでしかない。儒教、朱子学の持つ形式とは言葉で主張するところから一歩引いて行動で示す事に在り、ここに心底の無い形は失望や信頼の逆になってしまう。誇りと謙譲は同じところに出自を持ち、他者の誇りを尊重する事は自身の誇りを尊重することに同じ。その誇りは謙譲を以て示される。
      が、しかし、今の日本人にこんな事を言っても詮無き事か・・・・(笑)

      コメント、有り難うございました。

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