「心を求めてはならない」

私がこの世で一番嫌いな言葉は「誠意」だ。

これを言う者とは決して相容れない事にしている。

国際オリンピック委員会「IOC]2021年8月2日、広島原爆被害者協議会に対し、依頼されていた大会開催中の8月6日、大会関係者の黙祷を拒否した。

これに対し、広島原爆被害者協議会、広島市は「残念」だとコメントしたが、残念なのは広島被害者協議会と広島市である。

元々、何かに対する祈りは強制されたり、あるいは依頼されて為されるべきものではない。

その個人1人々々が、心底祈りを捧げたいと願う心が在って成立するものであり、これを要請、依頼して為させるは、傲慢の極みと言える。

それが善で有っても、それを為すか為さないかは個人の自由であり、たとえ為さないとしても他者はこれを非難できない。

そう言う状況だからこそ、為される善は尊いのであって、これを要請して為させる等言語道断と言える。

原爆・水爆をこの世から根絶する思いと、広島・長崎の原爆被害者を追悼する気持ちは、イコールではない。

被害者及び遺族の心情は個人の家の心情の集積であり、本来全くの第三者の死は家族や親交が有った者以外には関心がない。

私が死んだからと言って、私を知らない者にとっての私の死など、どうでも良いし関心が無いのが普通である。

そして人の死に上下が在ってはならない。

災害で死んだ人が特別に尊い訳でも、原爆で死んだ人が特別に尊い訳でもない。

今一粒の飯も口にすることができずに死んでいく者、事故で死んでいく者、あらゆる者の死は等しく尊い。

原爆で死んだからと言って、それが特別だと思う、世界の皆が悲しんで当然だと思う、その卑しき心こそ、日本を狂わせる。

かつて英国首相マーガレット・サッチャーは、東西ドイツ統合に反対していた。

その理由は敗戦国となった西ドイツと、成り行き上戦勝国となっていた東ドイツが統合されると、ドイツの国際的立場が上昇してしまうからだった。

出来ればドイツの頭を抑えておきたいヨーロッパでは、必ずしも東西ドイツ統合は歓迎ばかりではなかった。

第二次世界大戦では日本は世界を敵に回して戦争した。

ゆえ、アメリカでもヨーロッパでもアジアでも、日本に対して好意的な感情ばかりとは言えない。

またこうした感情と原爆、水爆に対する恐怖心とは同じではない。

たまさか日本が世界で唯一の原爆被災国家だからと言って、原爆・水爆反対運動そのものとだと錯誤するは行き過ぎている。

現に国連で原爆・水爆廃絶運動が発生していても、日本国はそこに参加していない。

このような状態で、戦争被災と原水爆廃絶平和運動のそのものが、広島や長崎に在ると考えるのは、公私混同である。

私は8月6日と9日には黙祷を捧げる。

だがそれは日本人だからだ。

あらゆる国家の民族、その個人に同じ心を求めるは、卑しき事だ。

人間は自分が好意を持っている者の死は悲しく思い、敵意を持っていた者が死ねば、あるいは喜ぶかも知れない。

そうした状況に在って、自身の身内が死んだ時、それを知ったあらゆる人が悲しむ事を望むのは、心の餓鬼だ。

もしかしたらその死を喜ぶ者もいるかも知れない。

だからこそ、その祈りは尊いのであり、そうした状況でも進んで祈りを捧げたいと言う申し出が有ることが嬉しいのであり、それを自分から「悲しんでくださいね」と相手に頼んで、それが正しい在り様だと思っている事が、その卑しさが私には恐ろしい。

今の日本は本当に心が薄い。

軽薄な正義や善にみんなが拠って集り、それに賛同しない者は心が無いと非難される。

広島原爆被害者協議会の高齢者達よ、今一度胸に手を当てて考えてみるが良い。

いろんな心情を持っている相手にまで、自分の惨状を悲しむのが当たり前だと考える、そんなあなたや日本の為に、あなたの父母兄弟は死んで行ったのか・・・。

そうじゃないだろう・・・。

IOCが、黙祷させてくださいと言えば、それに対して感謝し、自らは人にそれを強要、若しくは心的負担をかけずに黙っているからこそ、その精神の広さと崇高さが担保されるのではないか・・・。

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。