「バナナを踏んだら滑るよ」

1987年、この年に発刊された漫画雑誌、単行本、新聞の4コマ漫画の中には、私が所蔵している物の中だけでも7つの「転倒ネタ」が出てくる。

実際には転倒を笑いにしたもの、シチュエーションはもっと沢山有っただろうが、当時の民衆はこれに付いて、その転倒した責任を誰に求めていたかと言うと、そのほとんどが「笑い」に転嫁されている事からも理解できるように、「自己責任」とする概念が一般的だった。

どこかを歩いていて転倒した場合、それが明確に過失を問えるケース、或いは故意でない限り、その責任の所在は裁判所では争われなかった。

つまり国民は良識として、裁判に及ぶ以前に社会通念として、「それは自分のせい」と言う判例を持っていた訳である。

2018年4月、サミットストア練馬春日町店(スーパー)で、男性が落ちていた「かぼちゃの天ぷら」を踏んで転倒、右ひざを打撲し、じん帯損傷の怪我をした。

これに際し、怪我を負った男性はスーパーに対し、損害賠償請求を行ったが、その訴訟事由は「天ぷらを踏めば滑って転ぶことは容易に予想できた」として、店側の安全管理義務違反を問うた訳だが、東京地裁はこの訴えを認め、スーパーに57万円の支払いを命じた判決を言い渡した。

しかし、スーパー側はこの判決を不服として、東京高等裁判所に上訴していたが、その判決が2021年8月4日、言い渡され、スーパーには安全管理義務違反、怠慢となる程の過失は認められない、つまりスーパーに逆転無罪判決を出したのである。

同様の裁判で近い事例としては、5年前の神奈川県湯河原のスーパーの判決が存在するが、こちらはサニーレタスの水が流れ落ちていて、それで滑って転倒した客の損害賠償で、2000万円の支払い命令が判決で言い渡されている。

5年前の判決と2021年8月の判決では、安全管理義務が店と客のどちらに在ったかで、全く正反対の判決が為されているが、2021年8月4日の判決に鑑みるなら、「天ぷらを踏めば滑って転ぶ事は、容易に予想できる」、なら何故あなたは注意して歩かなかったのか、と言われた訳で有り、或る意味当然と言えば当然の話だ。

しかしこの判決をどう思うかと言う声を、報道機関が街角で求めると、「店が悪い」、「店が安全管理に注意しなければならない」と言う意見が出てくる。

中には「私たちは買い物に一生懸命なので、通路まで見ている暇はない、そこは店が注意しなければならない」と言う意見まで出てくる。

この意見が出た時点で、東京高等裁判所の判決は、その正当性が担保されているようなものだが、日本のような高齢化社会で、平日にインタビューすると、それに回答している者の殆どが65歳以上の高齢者、年金受給者と言う事になる。

足腰や視力は衰え、視野狭窄に陥っている者のコメントでは、「店が悪い」と言う話にしかならない。

例えば20代や10代の若者に聞けば、「それはトロい奴が悪いんじゃないスカ」と笑い飛ばされるかも知れない。

高齢者と言うのは自身を普通、若しくは基準範囲と考えているかも知れないが、生物学的には「劣化生物」、つまり通常の生物学的範囲で言えば、「異常」の側に在る。

唯、数が多いと、これが標準と意識されてしまう事から、高齢化社会の恐ろしいところは、劣化対策が為されたものを標準と考えてしまう、消費者側に過度に傾いた社会が形成され易いと言う事である。

その分、社会インフラや商業施設は、本来ノーマルな年齢層が多ければ商品開発、サービスの向上に回せる資本を「後始末」のようなものに支出しなければならなくなり、将来利益を生む為の投資が減少するのである。

1987年、滑って転べば、それがバナナだろうが天ぷらだろうが、水だろうが、責任は自分に有った。

どこをどう歩くかは自分の責任で有り、これは当時の高齢者でも同じ返事が返ってきただろう。

己が劣化した事を認めず、また買い物に一生懸命で自分が歩く道さへ見えず、何かあれば他人のせいと言う、生物学的「異常」が増殖し、若い世代の意識まで浸食する。

これも一つの「老害」と言えるだろうが、誰かの責任を追及する以前に、注意して生きなければならないのは自分の為で有り、足腰や視力、判断能力が衰えた事を、他者がカバーするのが当たり前、そう言う社会を「人に優しい社会」と錯誤、混同してはならないと思う。

2021年8月4日の東京高等裁判所の判決を支持する。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。