聖書中の「福音書」を「Evangealion」(エヴァンゲリオン)と呼び、「黙示録」の事を「apocalypsis」(アポカリプス)と呼ぶが、これらの言語は共にギリシャ語にその起源を持つものの、その発生時期は異なり、アポカリプスの方が古い起源を持つ。
すなわちアポカリプスはユダヤ教を起源とするが、エヴァンゲリオンはキリスト教を起源としていて、アポカリプスは主にギリシャ語を話せるユダヤ人に対して書かれたものが、キリスト教にも受け入れられて行った経緯がある。
そして興味深い事は「福音書」では、その多くが「希望」に付いて書かれ、一種仏教で言うところの経文のような性格を持っていたにも拘らず、「黙示録」では「絶望」に付いて書かれている点にある。
エヴァンゲリオンもアポカリプスも、基本的にはギリシャ語では「希」を概念させながら、その両者は極端に相反したものを指していて、同じ「希」がエヴァンゲリオンでは勝利や良い事を指しているのに、アポカリプスでは悪い方向の「希」を指し、こうした事はユダヤ教、キリスト教だけでは無くイスラム教にも浸透していて、その教義の中では根幹を為す部分を占めている。
アポカリプスとは「何かの覆いを外す」、若しくは「隠されていたものが暴露される」事を意味しているが、人間には預かり知らぬ神の国の事が示されると言う事であり、その内容の多くは「絶望」である。
「古来善と悪の戦いが有って、現在は悪がこの世を支配している」
「やがて神はこの悪の世界を一掃すべく、審判の日を生じせしめる」
多くのアポカリプスではこのような内容が基底となっていて、例えば新約聖書中の「ヨハネの黙示録」などは明確にダニエル書の引用発展なのだが、その事実を考えるなら、アポカリプトの出自は更に深い歴史を持っている可能性がある。
紀元前500年以上前のアケメネス朝ペルシャで、政治にまで深く浸透していたとされる「ゾロアスター教」、この教義の中には「光と闇の戦い」の話が出てくる。
結果としてゾロアスター教では「善」が支配することになってはいるが、一方で悪は「偽」や「死」を支配している。
また古代バビロニア、アッシリアでは「ギルガメシュ神話」に見られるように、既にユダヤ教、キリスト教の創世神話と同等のものが信奉されていた形跡が有り、その中にはアポカリプスに似たような記述が残されているが、その延長線上にはシュメール文明がある。
おそらくこの文明が成立したのは紀元前8000年以上前だろうと思われるが、紀元前3500年頃から始まったとされる文字、「楔型文字」が残されていて、この中にはとても不思議な記述が残っている。
「涙、悲嘆、憂鬱、激しい痛みが私の周りにある」
「苦痛が私を支配する」
「邪悪な運命が私を捕まえ、私の一生を亡きものとする」
「悪い病気が私を侵していく」
「なぜ私が無作法者として数えられるのか」
「食べ物は全て揃っているのに、私の食べるものは飢餓だけだ」
「分け前が割り振られたその日に、私の分け前が損失を被った」
これは2人の男性の記述だが、どうして彼らはこうした事を記述しなければならなかったのか、更には近年カナダでこの古代シュメール語に関して、それがシュメール語であるかどうかも分からず、言語学者にシュメール語の解読を依頼した女性精神科医師は、子供を連れ去られた上、人類は「絶望」だと言うコメントを繰り返した。
もともとシュメール文明は謎の文明であり、紀元前5000年頃の文明はセム語を話していたが、この時期を「ウバイド文化期」と呼び、その後紀元前3500年頃から紀元前2350年頃までは「ウルク文化期」、そして紀元前2350年頃からは「アッカド王朝」が成立していくが、シュメール文明の特徴である「ウルク文化期」のみがシュメール語を話すシュメール人の時代である。
そしてこのシュメール言語の口語発音は独立言語であり、シュメール人は自身の事を「混じり合わされた者」と呼んでいる事、更には人種的骨格が周囲のセム語族と同じ事から、或いは言語学的文化区分になるのかも知れないが、地球上かつてない言語形態を持っていた。
また彼らの文明は言語だけでは無く、地理的隣接地や時代的隣接文明とはどうしても異なるものが有り、そのひとつは女性の地位の高さである。
流石に男性優位は変わらないが、周辺文明では女性が奴隷と同じ扱いだった事からすると遥かに現代的で有り、なおかつ「目には目を、歯には歯を」の等価懲罰思想が存在していない。
その彼らが描く未来と言うものが、経った2人の男の記述で判断する事はできないとしても、どうしてこうも悲観的なのだろう。
そして私たちが見ている希望とは一体何なのだろう。
もしかしたら私たちは一度も叶えられた事などない平和や幸福を夢見つつ、その本質は「絶望」なのかも知れないと、私は思う時がある。
だがその「絶望」で有るがゆえに、今日私たちは宗教観を持ったのではないだろうか。
ヨハネのアポカリプスには終末の日、それは大天使ミカエルが吹くラッパの音から始まると記述されていて、ここ2年ほど世界各地で音源が無いにも拘らず、大きな悲鳴のような、はたまたジェット機が墜落するような大きな音が聞こえたと言う報告が出てきている。
ちなみにシュメール語の特徴は、一つの発音で多くの意味が異なるものが表現される事だった。
例えば「渡す」と言う言語一つでも、人にものを渡す、或いは橋をかけることまで、状況によって意味が違って行く日本の言語、言語学者の中にはシュメール語と日本語に共通点を指摘する者も少なくない。
中近東の砂漠に起源する宗教は、何か二元論的な感じに思えて、生まれながらの仏教徒(アメリカ大統領に立候補出来る要件にある生まれながらのアメリカ人が連想されました)としては、少し物足りない感じがしたことがあります。特に他者を排斥する論理にも思えて、やや不満(笑い)。
ノアの息子のセムとハム(ついでにヤペテ)の後裔がお互い憎み合って、いくら兄弟は他人の始まりと言っても、お互い遣りすぎな感情が芽生えているのでしょうが、流れは中々止められない様です。自派内の権力争いなどもあるでしょうから。
カナンの地でも実際は長く共住してきたのに、この百年ばかりは、進展が無い感じですね。
昔、「民族の起源」にセム・ハムなどから分かれたんだよね、日本人は何処にいるのか?皮肉っぽくは無く言ったことがありましたが、出張地でのちょっとした休憩時間の話題でしたが、もしかしたら、少しだけ困惑したかも知れません。
バベルの塔以降の祟りから未だ解放されていませんが(笑い)、なんとなく浮世の名声も大きく関係しているように思うときもあります。
ハシビロコウ様、有り難うございます。
私が初めて聖書を読んだとき、「何じゃこりゃ・・・」と思ったものでした。
近親相姦に姦淫、売春に裏切り、視野狭窄、拝金主義に原理主義、選民意識に他者攻撃の激しさ、偽りと欺瞞、傲慢にご都合主義、金が全ての拝金主義と言う具合で、とても崇高なものとは思えなかった。
当然神も信じる訳には行かない訳で、良くこんなものを読んで神を信じられるなと思ったものでした。
ユダヤ教は結局他民族との血の交わりを恐れたのでしょうね。
神と人間の女との交わりで悪魔が増えてくる訳で、これから始まって他民族との血の交わりを最大の悪として「姦淫」としたのだろうと思います。
ですが、本当は人間を区別するところから間違いは始まっている。
人間がこの世に始まった時から、おそらく消滅するまで戦争はなくならない。
戦争がなくなるとしたら、その時は人類は人類ではなくなっているかも知れません。
その意味では聖書は「本能」の書であり、この本能の中をどう生き抜いて行くか、と言う事なのでしょうね。
仏教もキリスト教も何か古い慣習が発展してきたもののように思いますが、仏教は比較的排他性が薄かった。
しかし近年、仏教の中でも原理主義的な傾向のものも現れてきたように思います。
コメント、有り難うございました。