「我が形を為すもの」・1

私が幼い頃、家は貧しく、両親は昼も夜もなく働き、また父親は子供に関することに口を挟むことはなかった。

ゆえ、私は祖母や母親から「男」と言うものに付いて教えられたのであり、私が理想とする「男」の在り様とはつまり、古い時代の「女」が望む男の姿であったかも知れない。

「男と言うものはそんなに軽々しく人前で歯を見せてはならない」、つまり人前で軽率に語ったり笑ってはならない。

また同じように「男は人前で泣いてはならない」

「姿勢を正して、正々堂々としていること」

これは祖母と母が、私が幼い頃から一貫して言い続けてきたことであり、基本的に男と言うものは、そんなに軽率に感情を露にしてはならないと言うことだった。

人間嬉しいときはその嬉しさを人に語りたくなり、悲しいときもやはりどうにかしてその悲しみを人に伝えたくなるが、所詮人の喜びや悲しみなど、他人にとってみればどうでも良いことにしか過ぎない。

ましてや喜びを他人に語るなど、それは自慢にしかなっていないのであり、これが我子や身内の話で為されるものなら、そこから生まれるものは喜びの共有ではなく、愚かさと人心の分からぬ「傲慢」と言うものであり、こうした在り様は人の「信」を失う。

更に言葉の巧みな者には「真意」がなく、涙を見せる男は優しいように見えて弱い、

いつかその優しさゆえに、弱さゆえに愛する者を守れない日が訪れる。

祖母や母は愚かな人だった。

知識や教養もなく、美しい人でも優しい人でもなく、ただ人に迷惑をかけず、働くだけの頑なな人だった。

だが、眼前に広がる現実のみがその全てであり、それが我が形を為すものであるなら、彼女達の言葉はまさしくこの世の、人間の本質をその形から先に説く偉大なものであったと今は思う。

また彼女達が許す「男」が泣いても良い時と言うものは、一生の間に2度だけ存在していたが、それは親が死んだときだった。

そして、私はつい最近のことだが、人前で何の遠慮もなく号泣した。

その朝、前日の無理な「田起こし」がたたり、いつもなら5時に起床するものが随分と寝過ごしてしまい、どこか遠くで父親が呼んでいる声で目を醒ました。

あたりを見回すが妻はまだ寝込んでいて、恐らく6時30分前後だったかと思うが、

父親の「ばあちゃんが倒れとる!」と言う声の聞こえる方へと、納屋の方へと向かった私は、父親の言葉と現実の大きな落差に、一瞬にして涙が溢れ、「何をしとるんや!」と叫んで母親の足元に駆け寄ったが、その足は地面から30cmも離れた所の宙に浮いていた。

納屋の階段には稲の苗箱を縛るために使われていた、ビニール製の頑丈なロープが4本も束ねてきつく結ばれ、その片方は母親の首にしっかりと巻き付いて、これもとてもほどけるような生易しいものではなく、母親は目を閉じて、舌を斜めに出してぼろ切れのように階段の手摺にぶら下がっていたのだった。

これと同じ光景は以前にも一度見たことがあった。

若い頃東京のボロアパートで、やはりこうして若い女が首を吊って死んでいたことがあり、その時は女の母親に早く娘を降ろしてくれと頼まれ、それで私が体を抱え、もう一人のアパートの住人が同じようにロープをほどこうとしたがほどけず、台所から包丁を持ってきてロープを切ったことがあった。

だが今度は自分一人しかいない。

私は近くに置いてあった鎌(カマ)を手に取ると、母親の体を片手で支え、そして4本も束になったロープを切った。

そして抱えたとき、まだ体が温かかったことから、首からロープをほどくと、立てかけてあった1m80cmの合板の板を土間に敷き、そこに寝かせ心臓マッサージを始めた。

「誰か救急車を呼んでくれ」、母親の心臓をマッサージしながら父親に子供達を呼ぶように頼み、やがてやって来た娘に救急車を呼ぶように伝えた私はバラバラと涙がこぼれながら、「何でこんなことを、アホが、アホが・・・」と叫びながら心臓マッサージを続けるが、母親の表情は何も変わらず、やがて救急車が到着し、流石にこの騒ぎで目を醒ました妻が救急車に一緒に乗り、私は救急車と一緒に来た警察の対応に当たる事になった。

全ては私の責任だった。

この前日、翌日から暫く雨になると言う天気予報が出ていたことから、その雨が来る前に田を耕して置きたかった私は、遅くまでトラクターに乗っていて、それで疲れて翌日いつもより寝坊をしてしまった。

このことが母親を死に追いやってしまった。

言わば母親を殺したのは私だった。

「我が形を為すもの」2に続く

[本文は2011年4月23日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。