「組織力の上限」

10人の人がいて、その10人で何事かを為す時、為されるべき事の速さ、正確さ、重きは、10人の中の最も力無き者が為す範囲を上限とする。

一つの組織を知るとき、該当する組織で一番仕事が遅く、かつ事情を抱えている者が為す範囲を見れば、その組織がどれだけの事を為し得るかを知る事ができる。
つまり一つの組織の最大の力は、その組織内で最も低い仕事能力者が行える仕事量が上限なのである。

どれだけ優秀な者が揃っていようと、その中で一人でも連絡が遅い者が有れば、全ての連絡が伝わる速度は、この連絡が一番遅い者の速度にしかならず、家庭の事情で悩み、行動が遅い者が有れば、組織の行動力はこの一番遅い行動力の者の速度が上限となり、もし組織がこうした能力の低い者を無視して動き始めるなら、下から順次非能力者を発生させ続け、最後は一番優秀な者以外は全て非能力者となる。

それゆえ一人でも「窓際族」を発生せしめた組織は、以後必ず誰かを窓際に押しやるようになり、こうした状況を改善しようとはしなくなるばかりか、常に競争社会に有る人間は、ライバルをそうした劣化した状況に追い込む傾向を持ち始め、ここに組織は分裂に向かって歩き始めるが、基本的には学校で発生する「いじめ問題」も本質は同じであり、これは事実上崩壊に伴う離合集散の一歩手前の状態である。

だから組織はその組織内で最も仕事が遅く、家庭や金銭面で最も事情を抱えた人間を、如何にその状況から引き上げるか、引き上げる力を持っているかによって、その最終的な力が推し量られる事になるので有って、この場合組織にどれだけ状況的にマイナスでは無い、プラスの人間が多く存在しているかによって決まってくる。

例えば金の無い者が集まって利益を出す相談をしていても、基本的に現在ですらマイナスなのだから、当然それよりはリスクの大きい未来は更なるマイナスにしかならず、アイディアが無いからと集まって相談する会議では、皆がアイディアを求めて集まっているだけで、決してそこからアイディアは生まれない。

結果として集まった人間の中で最低レベルにある人間の状況に引っ張られ、組織を重んじるなら、この最低レベルの者に歩調を合わせるざるを得なくなる、これを妥協案と言うのであり、妥協案は問題解決ではなく問題の先送りであり、問題と言うものは先へ行く程解決が困難になる。

そして国家と言う単位でもこの事は全く同じで有り、国民に逼迫した状況に有る者が多い国家は、その国家も逼迫した国家となり、モラルが無い国民が多い国家は国家自体もモラルが無い状況に有る。
ゆえ、その国家で最低の状況に在る者が、その国家の現実であり、こうした事から国家が為さねばならない事は一番底辺の引き上げ、或いは切り捨ての選択なのである。

しかし組織で有れ国家で有れ切り捨てはできない事で有り、従って組織も国家も力を蓄える時は一番能力の低い者、その状況を生み易い者を引き上げる事が重要な訳で有り、国家で有ればまず一番貧しい者を引き上げる政策を行う事である。

豊かな者は数が少ない、そして貧しい者、困窮した者の方が常に多いものであり、豊かな者に幾ら金を上積みしても何等効果は薄いが、同じ経費を使うならその経費で貧しい者を救う場合、豊かな者より遥かに多くの者を救う事ができ、尚且つその国家は治安も安定し、その分力を蓄える。

この事から一つの国家が経的衰退を迎えた時、それを打破する、または緩和する場合、上層部を救済するのではなく、最下層の国民を救済する事が効果的で有る。

だが、国家的衰退期に有る国家と言うものは、その以前には繁栄を極めた国家で有る場合が多く、一度繁栄を極めた国家は個人が持つモラルや道徳観念の「形」を国家が代行する仕組みになってしまっている状態が多い。

つまり本来なら個人が為すべき道徳観念の「形」、例を挙げるなら「親孝行」や、「人としての道」を国家が「社会福祉」として代行してしまい、ここから経済が衰退を始めると、国家は道徳観念と経済の興亡に巻き込まれて動きが取れなくなる。

実に今日本が抱えている問題は紀元前の昔から大きな問題だった。
重臣たちが高齢化して働かない割には、そこに権力も富も集中し、一般の民衆は苦しい生活を余儀なくされるが、これを改善するときは年長者を切り捨てるしかなく、これだと「年長者を大切にする」「人としての道に背かない」と言う「礼節」にぶち当たる訳である。

この原因と解決策は比較的簡単な事だ。
道徳や礼節は本来個人の責任に付託されるべきもので有り、この大系は国家が指針とならねばならないが、そこに国家が手を出してしまうと個人の責任が国家に添加されてしまう。

つまり、国家は本来個人の付託に任されるべき社会福祉を過度に拡大してはならず、過度に拡大してしまった場合は、年長者の富や権利を剥奪し、それを個人という民衆に分配し、個人に本来個人が持つはずのモラルや道徳を返還する作業を行わなければならない。

が、この事は言うは易く、行うは難しいこともまたその歴史が証明している。
現在の日本は高齢者と言う働かず、それでも国家から支給されるお金で余生を楽しむ者で満たされている。

従って日本と言う組織はこの高齢者の在り様を上限として、物事を考えねばならないのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。