「回答書簡・5」

尊敬と言う言葉が有るが、ではこの尊敬は人から押し付けられて持つことのできる気持ちだろうか、若しくは罰則を付加して、その罰則を根拠に「尊敬しろ」と言われてどうにかなるものだろうか、それはできまい・・・。

 

強制されて取り敢えず「分かりました」と口にしたところで、心の中では「ふん、誰が尊敬などできるものか」と思うはずである。

 

だがその一方尊敬には例えば品物を送ったり、手紙を書いたりなどの「形」として現れるものも存在してくるが、この形を中心に考えるなら、同じ形の両極端に「尊敬」と「強制された尊敬」が存在し、片方は自主的な意思、そしてもう一つは強制で有り、ここに尊敬と言う形を巡って同じ言葉で有り乍ら、自由と独裁に近いものが現れてくるのであり、「法」の概念にも同じ事が出てくる。
誠意、正義なども然りだが、これは基本的に「人」を指しているのであり、同じ尊敬でもそこに両極端な相違が現れてくるのは、尊敬と言う気持ちを持つ側と、そうした気持ちを被る側が出てくる為であり、この両者間では同じ尊敬を巡って北と南、寒暑の違いが出てくるからであり、これを一装束に考えてしまうと、「対立」や「矛盾」が発生してくる事になる。

 

即ち「尊敬」と言う言葉を巡っては、その気持ちを持つ側と、それを被る側相互が「尊敬」と言う言葉を大切にする気持ちがないと成立しないのであり、「法」も全く同じで、こうした関係に措いて世の中が動いて行く在り様を「天意」と言うのである。
凡そ人の気持ちの代償は金銭や物品なら、その者が持つ全ての財力をしても贖い切れるものではなく、こうした気持ちを得る為には金銭物品を超えた何かが必要なのであり、それは形と際限を持っていない、そんなものを与えることによって、始めて際限のない恩恵である尊敬を得るに至る。

 

そして「家族」とはあらかじめ完成されている集団で、常にその時点の状況から変化、衰退していく集まりでもある。

 

この中に有って、例えば年長者は尊敬される立場で有るが、それには長年生きてきたいろんな知恵や処世術を示したり、そして子孫に対して無限の愛情が無ければ尊敬は得られない。

 

毎日パチンコに通って酒を飲み、孫程も年齢差のある女の所に入り浸ってるなら、家族や子孫はどうしてこれを尊敬などできようか・・・。

 

しかし、年長者が豊かに老後を過ごすのは「権利」だと思った時から、そこには子孫に対する強制や独裁的な意思が芽生えるのであり、子孫は自身の良心と現実のギャップに苦しむ事になる。

 

1970年と現在の高齢者とを比較すると明確に現在の高齢者は質が悪くなっている。

 

つまり家族から尊敬を得られる行動が少なくなり非行化しているのだが、この背景は「尊敬」が持つ「形」に有る。

 

国家が発展し、社会福祉が充実して行く過程で、本来は尊敬に値する行動や姿勢が有って始めて尊敬され、それによって子孫によって保証されてきた老後生活に、社会保障が干渉し過ぎて「与える事の必要性」が無くなったのである。

 

つまり社会保障によって経済的に独立した高齢者は、自らの姿勢や生き方を通じて尊敬を得る努力をしなくても、生活が成り立つようになったのであり、基本的には暴走を始め、それによって家族は核家族化し、何等尊敬されるに値する行動が無くても尊敬が持つ「形」を手に入れる事ができるようになり、ただ恩恵の中に有って今度は自身を尊敬するのは当然の事だと言う話になって来たのである。

 

過度に充実し過ぎた社会福祉はこうして親の顔が見えない子息と令嬢を作り、子供の顔が見えない暴走高齢者を作ってしまった。

 

それゆえこうして少子高齢化社会に陥り、経済が徐々に衰退していく今日、基本的には尊敬に資する姿を示さねばならない高齢者が自らを律し、後進に道を示さねばならないにも拘らず、その「形」を国家が代行している現状は、マクロ的には与え無ければならない事を理解し得ても、ミクロでは決して譲歩できない状況を生んでいる。

 

これはとても不幸な事だ・・・。

 

東洋思想の最も深遠な部分である「天意」が逆流している。

 

自由と独裁や強制の関係は表裏一体のものであり、得る者も与える者も表裏一体で有る。

 

尊敬や子が親を敬う気持ちと、それに資する生き方を示す親の関係は明確な形こそないが、この世で最も強力にして社会思想の根底を為すものである。

 

これが社会福祉や経済、金で支えられている社会は余りにも脆い。

 

金が無くなったら全てが崩れ去る事を知っているからこそ、それを恐れ経済至上主義から離れられない。

 

結局「天意」の種すらも食い尽くして行くようなこの社会、言い換えれば民衆と言うものが私は悲しいのである。

 

Sさん、NMさんこれが解説です。

 

以上をして、暫く回答記事に付いても中々書けないかも知れませんが、

 

ご了承ください。

 

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こうした関連の許可申し込みのご連絡は必要ありません。

 

有難うございました。
「本文は2013年2月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。