「マルチシート」

里芋は種芋、若しくは苗を植えてから収穫出来るまでの期間が比較的長い芋で有る。

この事から里芋は水管理や施肥、畝の上げ直しはもとより、芋畝の除草にも大変手間のかかる芋で有り、山村の伝統的な除草方法は、そもそも雑草を生えにくくすると言う方向性を持っていた。

一般的には藁や茅を切ったものや落ち葉を畝に蒔き、これによって雑草の成長や光合成を妨害する方式が広く採用されていたのだが、勿論、こまめに雑草をむしる作業で対応する方式も汎用された方法であり、近年こうした考え方の延長線上に発展してきたのが「マルチシート」による除草で有る。

これは畑の畝などにプラスチックやポリエチレンの薄いシートを貼り、その部分の地温上昇と土中に窒素飢餓状態を作る事によって雑草の繁茂を阻害する方法だが、これだと確かに雑草は生えない。

しかし、例えば里芋の畝にこれを使用すると、里芋の株は2、3本が大きく成長するものの、確実に芋の収穫個数は減少する。

里芋は1本の株から収穫出来る数には限界が有り、従って1本の株をどれだけに見事にしても、中くらいの株2本から収穫出来る芋の個数よりは少なくなる事から、4本ないしは6本が成長した形が理想形と言えるが、マルチシートを使用した場合、これがどうしても3本程の株にしかならず、芋の収穫量も減少してしまうのである。

それゆえ地方の田舎でも、一時期マルチシートを使って里芋を栽培しようとした零細農家も存在したが、今では殆どの農家が伝統的な除草様式に帰順してきていて、この傾向を考えるならマルチシートの需要は閉ざされるはずだが、一方でマルチシートの需要は伸びてきているのである。

これはどう言う事かと言えば、零細であれ農家と名が付くプロフェッショナルが減少し、家庭菜園農家が増加している、或いは農家のアマチュアリズム化が起こっている事を示していて、この場合は収穫量よりもかかる労力削減に重点が置かれる為、藁や茅、落ち葉の調達が困難で保管も難しい事から、マルチシート除草が効率的になる訳である。

またこうしたマルチシート以外にも「除草剤」などを散布して雑草を枯らしてしまう方法が有るが、これだと栽培野菜も枯らしてしまうリスクが有り、しかも基本的にはマルチシートも同じ事だが、雑草を全く生やす事のない土手や畦は形を保てず、土がボロボロになって崩壊する。

田圃なら全く水が保てない状態、若しくは土手が簡単に崩れ去る事になる。
田畑に「形」を保たせているものは「雑草の根」なのである。

どうだろうか、同じ里芋を巡ってもこうして見てみるとその地域や人の事情によって、微妙に違った方式によって栽培されている事、邪魔な雑草が最も大きい部分である地形を維持している事を考えるとき、これだけ取って見ても地球には「平等」や「公平」と言う事が存在できない事を理解できないだろうか・・・。

或る者はマルチシートで、また或る者は茅や藁で、そして別の誰かは除草剤で、田舎のおばあちゃんは手で一本一本草をむしって除草しているのであり、この方式の違いは環境と個人の事情に有る。

それゆえ、これを一番利用人数が多いからと言って、全てマルチシートを使ってくださいとしたらどうなるか・・・、これが政府や行政による基準と言うものなのである。

そしてこのようにして始まった基準と言う個人の責任に対する怠惰な加減は、マルチシートの例のように当然矛盾を発生せしむるが、これを調整するのが政治であり、政治はここで全ての人の納得を得ようと努力すればするほど、より多くの基準や規制を設けなければならなくなり、結果としてその国はがんじがらめになって行き、大きな閉塞感に覆われ、ここで民衆が求めるものは「規制緩和」と言う事になる。

規制緩和は「自由」ではなく、「責任の回帰」で有る。

つまりこれまで基準や規制と言う物干し竿にぶら下がっていれば、何も考える必要もなかった状態から、物干し竿が折れてなくなり、自分で生きる努力をしなければならない、本来の自由と責任の有り様に回帰していく方向に有ると言う事で、こうした傾向は政治的には「独裁制」に向かっていくと言う事である。

つまりあらゆる意味で規制緩和の機運が高まれば、当然手続きの簡素化や組織運用の簡素化が図られる事になり、この分だけその国家の代表は自分の意思が通しやすくなる。

古代ローマ帝国が権利関係が複雑になり国家意思決定が困難に陥った時、全ての権限を委任する「独裁官」を設置したのも、原理的には今の日本と同じような荒廃をきたしたからである。

地球に同じ地形や条件の「場」は存在せず、人間の事情も環境もそれぞれ絶対一致しない。

だから人間には「平等」は有り得ず、ここで都会ではエアコンは必需品だが、それが絶対必要と言う訳ではない地域も存在しながら、隙間だらけの田舎民家で、エアコンを使うことが平等と考えた時から社会はおかしくなってしまった。

また基本的に食中毒は、その個体の体調によって大きな幅を持っている事や、古い時代には特定の地域である種の菌に対する耐性を持つケースが有った事などを考えるなら、生物学的進化の観点からも日本全国同一基準は大きな矛盾を抱える部分を持っている。

生物の自然界に対する耐性力は「多様性」に有る。

大きな経済が動く首都圏では石油燃料を多用し、一方人口の少ない地方では間伐材を使った薪による暖房等の区分を考えるような、「環境効率性」を「不平等」と考えてしまう地方の考え方こそが本当の意味での「平等」を規制にしてしまっているのではないだろうか・・・。

私は全ての地域が同じような形で発展する必要は無いと考えている。

[本文は2013年3月1日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。