「堅き門」

日本国憲法と大日本帝国憲法、つまり太平洋戦争後の日本の憲法と、太平洋戦争以前の日本の憲法の決定的差異は、政府権限、或いは政府裁量を制限する幅の違いに有り、政府国会、民衆、天皇の関係に措ける序列手続きの順位転換に有る。

 

明治政府から始まる近代日本の立憲君主主義、議会制民主主義政治では、その発足直後から政府が権威を担保することができなかった。

 

これは現在に至っても同じだが、政府と言う行政組織はどの時代でも常に「信頼」が無かった。

 

それゆえ大日本帝国憲法では、この信頼を「天皇」に担保して貰う事で政府の信用が保証された訳で有り、天皇はまた民衆からの信頼、権威を維持する為に輔弼者である政府を尊重する事で、民衆から選出された国会や内閣を尊重する事で「民意」に従う形を取り、為に内閣の方針に意見をしない形式が出来上がったのである。

 

従って大日本帝国憲法を担保していたものは「形のない無言の圧力」と言うものだったが、これは政府、内閣に携わる者の質や品位に頼ってしか保たれず、結果として経済的に追い込まれてしまった太平洋戦争以前の日本の内閣は、常に非常事態の状態に陥り、気が付かない間にどんどんその品位や質を低下させて行き、やがては太平洋戦争に突入したのである。

 

こうした経緯から太平洋戦争の勝利者で有るアメリカを始めとする民主主義国家群は、日本国憲法によって日本の内閣の力を制限する方式を採用したのであり、政府行政権の上に絶対性憲法を置いたのである。

 

これが日本国憲法第98条であり、憲法の規定に違反した法令、国の行為は全て無効になる、つまるところ憲法によって権威を設定したのだが、如何せんこの憲法を担保するもの、守る手続きである「軍隊」をも否定してしまった。

 

為に日本国憲法は大日本帝国憲法では憲法を守る軍隊が存在しながら、その権威が宙に浮いた状態だったものが、その権威は決定的に出来たものの、自国憲法の最後の守護者をアメリカに求める他力本願憲法になり、この曖昧さと矛盾から大日本帝国憲法の時に存在した方向と同じような、政府による憲法の拡大解釈を容認し、国民が政府に異議を唱える道が閉ざされている状態を生じせしめている。

 

日本国憲法98条の規定は、大日本帝国憲法では政府の方針に対して天皇がこれを了承する事で民意が担保された手続きが、議会制民主主義制度に措ける選挙によって直接民意を諮ったものとし、これを追認する形で天皇が存在する形を持っているが、基本的に個人の人権が最上位に位置している事を規定している。

 

それが「憲法に違反した法令、国の行為は全て無効とする」と言うことなのだが、一票の格差が憲法違反であると言う判決が出ても平気で議員を続け、東北の震災で未曾有の原子力発電所事故を起こしながら未だにその解決策も見つからず、放射能汚染水の処理方式もその糸口すら見出さない状態に有って、原発企業を引き連れて海外に原子力発電受注行脚に出かける現政府を鑑みるに、日本国憲法98条と言う政府に対する蓋の存在は極めて大きい。

 

また日本国憲法96条には憲法改正の手続きが規定されているが、これによると憲法の改正には衆参両院議員総数の3分の2の賛成が必要であり、この国会の発議によって国民投票が行われ、過半数の承認が無いと憲法改正はできないが、このようにして他の法律よりも厳格な手続きを持つ憲法を「硬性憲法」と言い、他の一般法令と同じ手続きで憲法が改正できる方式を「軟性憲法」と言うが、世界の現行成文憲法はその殆どが「硬性憲法」である。

 

現行日本国憲法は決して完全なものではなく、その運用も既に政府によって有って無いようなものとなってしまっている。
しかし乍、日本国憲法96条の改正は基本的に大日本帝国憲法が改正されたものを更に改正する、つまりは元に戻る道を開くもので有る。

 

如何に崇め奉ろうが所詮紙に書いた文章である。

 

為政者やそれを運用する者によってどうにでもなると言えばそれまでの話で、同じように自衛隊の日本軍昇格も、その軍の性質は憲法と同じように誰の軍なのかの議論を欠くと、それが最後には民衆に銃口が向けられる事になる。

 

憲法の改正など本当に今の日本に必要なことだろうか、また現政府、これまでの政府の有り様を見ても、彼らが自身で品位や質を保てるとはどうしても思えない現状で、「硬性憲法」を「軟性憲法」に近づけるなど、強盗にキャッシュカードを渡し、暗証番号まで教えてやっているようなものだ。

 

どの道この国家の為政者に取って憲法など豚に真珠であり、ここで決定的な門となっている日本国憲法96条の改正は、増税や円安による大企業偏重、一般民衆の極貧化と言う貧富格差と相まって、まるで太平洋戦争開戦前の日本の姿そのものと言え、基本的に力の有る者はどんな状況でも静かなものだが、一つ弱くなるとキャンキャン吠え出す者に同じである。

 

今この国家に求められているのは決して憲法改正ではなく、歳出経費の削減と小さな政府、行政の実現であり、高齢者福祉制度の見直しと、減税で有る。

 

国家、その国家の国民としての意識や方向性を問うには、今の日本は疲弊しすぎている。

 

この状態で日本国憲法96条と言う堅き門を押し開く行為は、日本を更なる混乱と危機に陥れる事になるだろう。
[本文は2013年5月3日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。