「最後の一服」

物を生産販売する者はそれが高く売れる事を目標とする。

一方、物を買う側はそれが安く買える事を望むのが道理で有り、ここに物を巡ってそれを生産販売する者と買う側には対立が発生するが、この両者の調整は需要と供給のバランス、つまりは市場に付託される。

しかし資本主義経済の原則が拡大に有る事から、この市場はいつか必ず占有や独占と言う傾向から免れず、ここに市場が持つ自然調整機能が失われた時、政治的介入が為されるが、こうした政治的調整機能は必ずしも対立を解消するとは限らず、そこに横たわるものは手続きの公正さによる納得と言う形が多くなるが、こうした傾向は社会のあらゆる場所であらゆる瞬間に存在し、このような調整機能が組織化して定着したものが国家や政府と言うものになる。

従って「government」(政府)とは政治的調整機能が独立した形を言い、統治行為と統治組織の両方の意味が含まれ、ここで言う政府とは「司法」「立法」「行政」を包括しているが日本で概念される政府の概念はもっと狭く、ドイツ語の「regierung」(レギールンク)「行政」に相対している。

日本やドイツでは過去の時代に君主が大権を持ち、この大権を背景に政府は優位な立ち場で議会と対立し、議会から独立していた歴史的背景を持ち、ここに議会や立法と共同して何かを作り出すと言う概念が無い。

この為本来司法、行政、立法の三権分立の思想である独立した形での共同作業と言う側面が忘れられ、対立至上主義的なものとなってしまっているのである。

また先にも解説した通り、政治的調整機能はあらゆる場に存在し、「政府」と言う概念は国家レベルに全てが帰する訳ではない。

調整機能が有り司法も立法も備わっている事を鑑みるなら、地方自治体も「政府」と看做す事が出来、例えば友好都市条約や沖縄とアメリカの関係を見れば解るように、地方自治体が事実上の「政府」となっている現実を看過する事はできない。

この事から日本ではまだ定着していないが、「local government」(地方政府)と言う概念も必要になるのであり、統治行為、統治組織と言う概念に量るなら、「government」の実体はこうした小さな組織から国家レベルまでの全ての組織が入り組み、それらが関わる諸外国政府との関係も含めた概念として考える必要が出てくるのである。

そして「司法」「立法」「行政」と言う政府の要諦は、その時代によって循環性を持った偏重性が有り、例えば19世紀は立法権が行政権や司法に対して優位に有り、この中で概念される国家の機能は「治安と国防」と言う事になり、ここから20世紀には行政権が優位性を獲得した結果、三権分立と言う考え方が発生してきた訳で、これが今世紀に入ると「福祉国家」へと変遷を遂げた。

福祉国家とは、言い方に問題は有るかも知れないが「行き過ぎた行政権」とも言うべきもので、国家の機能は国民のあらゆる要望に応えようとして国民生活の細部に渡って入り込み権力が分散し、為に「政治」(調整機能)が専門性を要するようになると、独立した調整機能である政治家、所謂立法の調整機能が行政面ではアマチュアリズム化し、現実の調整機能を失う。

ここに本来は独立した政治(調整機能)だった立法、政治家が形骸化し、顕著な例が法案などの作成を実際は政治家が行えず裏で官僚が作成し、それを棒読みしている予算審議などの光景であり、ここでは立法府が行政機構の「道具」にしかなっておらず、加えて政策執行の過程では行政機構の自由裁量が初めから広く作られていく事から、政策執行の細部の大半は行政に委ねられる「delegated legislation」(委任立法)の附則や、行政の規則や命令で立法を補足するするやり方が通常化してきている。

日本に措ける官僚機構の蔓延は唯愚かな政治家に原因が有るのではなく、民衆が求める調整機能の大きさにも原因が有る。

ありとあらゆる問題や対立の調整を政治に求めると、そこで専門知識の無い政治家は執行者で有る行政に依存し、ここから行政が細々と対立の調整に乗り出す結果、権力が細分化され、元々完全な調整など有り得ない事から調整が調整によって矛盾を生じせしめ、やがては調整機能が爆発して吹き飛んでしまうのである。

つまり日本は調整機能の一つである行政に依存し過ぎて、その行政が持つ調整機能が分散に向かっている、言い方を変えれば行政の調整機能を細かく切り刻んで無くしてしまう方向に有ると言え、これを阻止する方法は決まっている。

調整すべき事案を減らす事であり、それらしい言葉で言うなら「規制緩和」と言う事になる。

また冒頭に出てきた市場が果たすべき自然調整に付いて、もはや市場は世界中どこでも国家(最高レベル調整機構)が全て関与しており、この中では政治介入が行き着くところまで行き付き、現在は一巡してしまっている。

あらゆる場面で政治的な介入をし過ぎた結果、自然調整を第一ステージとするなら、これに政治が介入して調整する時期を第二ステージとして、その第二ステージが上限を向かえ、最も初期段階の混沌に同じになっている。

日本経済は少子高齢化によって、或いは巨大災害によって危機に陥る事は確実であり、これに中国の少子高齢化がもはや眼前に迫っている。

世界第2位の経済大国とは言え、日本のGDPの2倍ほどもない経済で、14億人の大国の高齢化社会が始まるのである。

日本が1億人の中でここまで深刻な高齢化社会に陥っている事を考えるなら、その経済の2倍もない経済で日本の14倍の高齢社会は支えきれるものでは無く、世界経済の中で「やむなく許容」されている中国通貨は国際市場の不安定要因であり、これらが相まって発生する世界経済の流れは、友情を町内会に広げようとして危機を迎えているヨーロッパ経済を奈落の底に突き落とし、やがてアメリカはドルを自国に集め戻す日が必ずやってくる。

アメリカの量的緩和は絶対1年は続かない。

アメリカ通貨の量的緩和は国内金利政策上の大きな矛盾を抱えていて、この政策は非常事態の政策である。
緩和が縮小された時点で、後進国の経済も日本経済も中国経済も打撃を受ける。
そしてこの事をしっかり見据えているのが東南アジア諸国である。

「アベノミクス」が東南アジアで称賛された背景には、いずれやってくるアメリカドルの引き上げを見据えた発言である事を日本は肝に銘じて置く必要が有る。

年収の2倍もの借金を抱え年寄りばかりで働けず、それでも盛大に宴会をしている日本の姿は、まるで処刑される前に渡された煙草を、幸せそうに吸っている囚人の姿にも似たりの気がする。

[本文は2013年8月4日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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