「故郷」

私は多分、農業ではなく百姓をやりたい・・・
いや、そう有りたいと思っているのかも知れない。

米作りもこの30年ほどで随分変化し、あらゆる意味で合理的になったしセンスも良くなった。
農薬や肥料は稲が実る頃には米の中に全く残留しない形式になり、秋に実る穂の数までコントロールし、倒伏させずに刈り取るのが一般的になった。

それと農業従事者の高齢化と言う事では、どこかで農業がせわしなくなった気がする。

年金生活の中で農業をしているから時間が有り、あらゆる作業が少しせっかちな傾向になって、これに近代の経営的農業が引っ張られ、一般的に全ての農作業が昔の暦よりは早く、素早く仕事を終える形になってきている。

何か「終える」為に農業をやっているような、そんな不思議さが有るが、コシヒカリと言う米は「光」によって実り、昼夜の気温差によって甘味が出てくる。
この事を考えるなら、秋の稲刈りは9月後半から10月前半に持ってくるのが望ましいが、現代のコシヒカリの稲刈りは9月後半に終わってしまっている形が多い。

どこかで「人間の都合」で「栽培」されている、「楽をする事」が素晴らしい米作りになっているような、そんな気がするが、わざと遅く田植えをし、遅くまで水田に水を通し、皆が稲刈りを終えてもまだ稲刈りをしている自分は、きっと他の農業法人などからすれば非合理性の極みに見える事だろう。

またTPPなどと喧しく騒いでいる昨今、水が湧き、みんなが嫌う田んぼで泥だらけになって稲を手で刈っている者としては、話が遠すぎて赤とんぼの羽音すらにも聞こえて来ない。

私のやっている事と言うのはおそらく「景色」なのだろう。
幼い頃、両親や祖母、それに弟と月が輝くまで稲掛けをしていた、あの景色の中に私はいて、今は一人になってしまったが、それをやっているのだろうと思う。

勿論農業は収入を得る為にやっているし、できれば仕事も楽で有るに越した事は無い。
苦労をする事に価値観を持っている訳ではないが、機械を使い、高い農薬や肥料を使って楽をした分経費はかかり、苦しくなる。

どんな職業も同じだが、楽をしようとすれば儲からず、額に汗して努力した分が儲けになる原則は農業も変わらない。
私のような考え方は今の時代には笑止千万な事かも知れないが、日本人はもう少し苦労して稼ぐ事を思った方が良い・・・。

楽をして稼いでいる姿はスマートには見えるが、同じ金でも重さが違う・・・。

既に暗くなった農道で編み笠を外し天を仰ぎ、紺色の空に星の煌きをあたたかく思い乍家路を歩く時、遠い昔に自分に期待してくれた人たちの事を思う。

皆亡くなってしまったが、また彼等の期待には応えられなかったが、私は今も世界の真ん中に有って、緑の草原にたった一人、でも先の希望に胸を膨らませている。

私には故郷が無い。
なぜなら私が故郷の一部だから・・・。
私がやっている百姓が、この景色が故郷そのものだから・・・。

[本文は2013年10月11日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。