「中性社会」

例えば「解りました」と言う言葉を使った時、男性が女性に自分と付き合って欲しいと言った、その場面に対する回答も、逆に別れて欲しいと言われた場面の回答も同じ「解りました」と言う言葉を使うかも知れない。

言語と感情は基本的に別のものと言う事が出来る。

また「さようなら」と言う言葉でも親友なら「じゃ・・・」と言う一言で有り乍、会社の上司であれば「では、失礼します」となったり、恋人同士なら抱き合うだけで言葉を必要としないかも知れない。

このように言語とはその人の「社会」そのものであり、「環境」なのである。

だから一人の人が使う言語はその人のその時の世界の広さを示していて、この中では本来相反する意味の言語でも一つの表現で為される側面を持ちながら、逆に言語は事象を切り取って限定してもいる。

英語の「brother」や「sister」と日本語の兄弟や姉妹は同義では有るが、それが示す範囲や社会機構が違う為、厳密には相異が有る。
「brother」は兄弟と訳されるが、基本的に年齢の区分が無い。

この事から日本語では兄弟で年齢差による上下関係が示されるのに対し、英語ではここに上下関係が存在してない社会機構が出てくる訳である。

日本語のそれには長く継承された封建社会の「家制度」が意識されようとされまいと存在し、この言葉を使うが故に家族組織の中に上限関係が存在し続ける事になり、こうした事は男女の性差区分を幾ら欧米のように改めようとしても、使っているいる言語がそれを押し戻して区分をつける役割を負っているので有る。

「ナデシコ」と言う言葉で連想されるものは「女」であり、この事から女子サッカー日本代表が「ナデシコジャパン」と呼ばれたりしたが、これと同じようにナデシコと言う名詞が既に「女の名詞」になっている現実は、女を主張した場合不利な立場や危険に曝されるとしたら、女を自身で区分する言葉を遣っているが故に、セクシャルハラスメントに曝されるケースが発生してくる事が通常は意識されていない。

或いは「しとやか」と言う言語でも、しとやかな女はいても「しとやかな男」は気持ちが悪い事になるばかりか、この辺を妙に拘ると「中性」が発生する事になり、こうした社会背景が男女区分の中性を許容する社会を形成し、やがては中性の男女が増加する社会が発生する基盤となる。

その良い例が「勇敢な」と言う言葉だが、この言葉は30年前であれば女性に対して使われる事は少なかったが、現在では男女どちらに使っても違和感が無くなった。
それだけ日本の社会が中性化したと言う事であり、これは性差区別を排除しよう、男女が等しいもので有る社会を築こうとした欧米の思想が反映されたものだ。

しかし男女の性差は実は生物学的に決定的なものであり、これを思想でカバーしようとした結果が中性社会と言う、生物学的現実を無視した社会を作ってしまった感が有る。
「男勝りの女」はいても「女勝りの男」はいなかったはずだが、現代社会は容易にこうした言語を逆転させるに至っている。

振り返って冒頭で出てきた同じ言語で有り乍環境によって意味が逆転する言語作用を考えるなら、中性社会と言うものは言語区分を本来の包括する大きな意味へと返す作用を持つが、環境を区分する効果を失ってきていると言える。

言語を集合と考えるなら、これを区分する事は本来の意味を限定する事になってしまうが、一方でこうした限定は社会環境が複雑で有ったり、またはその人間が関わる「他」との関係、社会との関係であり、こうした細かな区分が存在するほど、基に存在する集合的非区分言語を広げ、深くする。

つまり言語は大きな基の言語が区分されて意味が複雑化するほど、より大きな言語へと成長するが、こうした区分が少なくなると本来のポテンシャルを失う。
男女が均等で有ろうとすればするほど男女は意識され、これが言語的に抑圧された人間社会は男女と言う区分の大切な部分を失い、結果として生殖と言う生物的大義の意味が薄くなる。

人間の記憶の部分は視覚の作用を多く受けて構成されるが、生まれた直後は不完全なもので、それが生まれた環境によって補正され構成される。
この事から区分が少ない、或いは曖昧な社会の影響を受ける子供はその影響された効果によって言語を構成し、その言語に縛られてまた社会が構成され、こうした形はバイオプログラムと言うものである。

それゆえ言語は「環境」で有り、生まれながらにして獲得されている社会を持っている。
現代社会で中性の男や中性の女が発生してくる背景には、性差差別をデリケートにしてきた人間社会の在り様が大きく影響していると言えるかも知れない。

また言語は「環境」で有るから、同じ情報でも時と場合、その人間が置かれた状況によって千変万化し、その千変万化が漠然とした大義の理解を発生せしむる。

簡単に言えば新聞で読む情報、本で読む情報、人から聞いた情報ではそれぞれに感じ方が違い、良い事が有った時と悪い事が有った時によっても感じ方が違う。

こうした多くの違いを認識するところに正確な情報の認識が有る。

しかし情報の質がインターネットだけで有る場合、そこには社会や「他」との関係が極端に少なく、社会的関係から解放された言語環境が現れ、こうした言語の質は「非言語」、「感情」である。

現代社会は複雑な社会となったが、そこに横たわるものは複雑な「環境」であり、複雑な人間関係や社会に見えるものは、実は直接言語で関係を築いてきた人間社会本来の姿ではない。

全てがインターネットで築かれた「虚構」の人間関係や社会関係の中で、言語を失いながら、言い換えれば社会を失いながら彷徨っていると言えるのではないだろうか・・・。

[本文は2013年11月20日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。