「重い扉」

今から6年前、2014年2月5日・・・。
現代クラッシック界で一時代を築いた全聾(ぜんろう・聴力を全く失った状態)の作曲家「佐村河内 守」(さむらごうち・まもる・50歳)氏に付いて、その作曲過程はおろか全聾と言う申告までも「新垣 隆」(にいがき・たかし・43歳)講師の記者会見により否定、虚構である事があばかれた。

これに対してテレビ朝日系列の昼のニュース番組「ワイド・スクランブル」中で、作詞家の「なかにし・礼」(なかにし・れい・本名中西禮三・なかにし・れいぞう)氏が作品を含めて全否定していたが、なかにし氏の精神性は非常に浅いものと言わざるを得ない。

元々「服部良一」氏(はっとり・りょういち・1907年-1993年・作曲家・故人)が言っていたように、戦後の作曲家、作詞家は海外の音楽情報に接する機会が有るだけでヒット曲を飛ばす事が出来た。

そこに有るものは人が知らない海外の音楽を、人より先に知る環境に有っただけだと言う話に鑑みるなら、なかにし氏はまさにその流れの中にあり、幼少期はともかく、さしたる苦労や失敗も無く人生を送った感が有る。

その氏が佐村河内氏の作品までも、全く価値が無いと発言した事は、同氏が作品の精神性を問う中で、作品とは何かと言う深い考えを欠いているように思う。
即ち両親が望まぬ子は価値が無いのかこれ如何、作られた作品に精神性を問うなら「作品は誰の物か」を考える必要が有る。

私は常々心がけている事が有り、それは「作られた物に人間性を問わず、自身の人間性をして物を売らず」と言う事だった。
物を作る者として、その作られた物の良し悪しが全てであり、そこで自身の人間性や言動で売れた物こそ、物としての価値が無いと思っている。

私は私と言う人を売っているのではなく、物を売っているゆえ、私など板切れでもゴミでも構わない、作られた物で評価される事を望む。
従って例えどんな悪いいきさつが有っても、その楽曲が素晴らしければ私はその楽曲を評価するが、こうした事は順風満帆で生涯を送ってきたなかにし氏くらいでは理解しようも無いだろう・・・・。

さて、この傲慢な文章だが、何かおかしいとは思わないだろうか・・・。

実は私は佐村河内氏の楽曲など聴いたことも無ければ会った事も無く、なかにし氏にも会った事はない。
そして恐らくなかにし氏も佐村河内氏や新垣講師に会った事は無いだろうし、私の事も知らないだろう。

でもこうして文章にしてみると私と佐村河内氏、新垣講師、なかにし氏が簡単に繋がって、しかも私は自身が悪くないように書き、なかにし氏を批判している訳であり、聴いた事も無い楽曲を称賛してもいる訳である。

この文章を読んだ人々はなかにし氏擁護論と私に賛同論に分かれ、広がっていく。
これがインターネットの「負」の部分なのであり、今日はこのインターネットの負の部分について書いてみようと思う。

なかにし氏は作詞家、小説家であり、また佐村河内氏や新垣氏に会ったことも無く、本来はコメンテーターなど本業でもないのにテレビで安易な発言をし、佐村河内氏のみならず新垣氏まで切って棄てたが、なかにし氏は彼等の一体何を知っていて発言しているかと言えば、伝え聞いた報道以外何も知らない。

そしてその何も知らないなかにし氏を、これまたなかにし氏の何を知っているかと言えば何も知らない私が批判し、皆がそれぞれ本業ではないところで、全く知りもしない人の事を断罪しているのである。
考えて見れば馬鹿々々しい話だが、インターネットの情報とはこうした情報が99%を占め、本当に必要な情報は1%もないものなのである。

私もなかにし氏も規模は違うが一つのリンクであり、このリンクは「node」(情報センサーの先端)になっていて、nodeはそれぞれにリンクを持ち、情報はこうした相互に入り乱れた周辺に行くほど濃度の薄い束になっていて、これらがまた全く繋がっていないようで、情報によって瞬時に繋がる即時連動性媒体となっている。

この事から例えば一つの菓子メーカーが菓子の情報を発信しようと考えた時、実際にはその何万倍もの菓子以外の情報の束に囲まれ、ここではその菓子メーカーは本業以外の所でも終始厳しい監視をされているような形態、本来個人や一企業に帰結すべき情報が露出した状態になる。

一方情報を検索する側は与えられた情報の精度を認識する時、その情報の支持者の多さをまず基準とする事から、その情報の支持者のリンクを見る事になり、ここに一つの菓子の情報から始まって世界情勢にまで繋がる情報の海の中へ入って行く。

そしてこうして一度情報の中に入って行った者は情報の海に取り込まれ、今度は他者の利害によって自身が検索される事になる。

多くの企業のリンクや問い合わせはもはや顧客獲得ではなく、自身が顧客とされる情報とされ、この中では顧客よりも他社販売商品情報や、それに関する接触リンク数が圧倒的に多い状態になるのであり、ここではより小さな情報、より劣化した情報の方が信憑性を持つ事になっていく。

世界的に自身の意思が薄くなり、他者の意見に便乗して責任を回避する傾向の原因は、こうしたネット社会が持つ仕組みに起因していて、ゆえに企業のネット広告は徐々に当たり障りの無いものか、それで無ければ一つの商品に特化した、スピードを持った広告なっていくが、これでも情報の海の恐さ、いつ自社が攻撃対象になるか予想が付かない。

ここに情報にトルクを付けることが考えられてくる訳で、情報は開示しながら入ってくるものを制限する、所謂非利便性をあえて設け、必要以外の情報を整理する考えが出てくるのである。

私は昔、自身が事業を始めた頃、4畳半の仕事場で、しかも玄関の戸が古くて開きにくく、これを人から指摘された事が有ったが、修さなかったのは金が無い事の他にもう一つ理由が有った。

即ち大した用事の無い者はこの段階で諦めて帰るのである。
本当に自分に用事のある者は戸を蹴破ってでも入って来るが、ちょっとした押し売りなどは戸が開きにくいだけでも帰っていく。

これは良いなと思っていたのである。

今やブログでも表紙代わりのブログと、メインページを設ける形式が現れるを見るに付け、これからは情報に如何にトルクを付けるか、また自身がこうして全く利害関係ない佐村河内氏の事に付いて何も思わず、意見を言わない合理性を忘れない事の大切さを思うのである。

[本文は2014年2月16日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。