「Face bookのゾンビモデル」

大きな山火事が鎮火するモデルは人工的消化活動の外に有る。

つまり山火事は自身で鎮火点を持っていて、そこへ達すると消火していくものなので有り、では何故鎮火していくかと言うメカニズムは分かっていないが、ここに1976年スーダンの「Nzara」で突然発生した感染症、エボラ出血熱の発生とそれが自然消滅したモデルを考えるなら、両者の関係に漠然とでは有るが一定の関係則を見ることが出来るかも知れない。

あらゆる生命、準生命、その生命が生んだシステムは拡大と繁殖によって消滅していくモデルを持ち、これは少なくとも地球上では物理学上の原理とも一致する。

山火事は火が山の頂上に向かう時は速度が速く、山を降りる火は足が遅くなる。

それゆえ全てのモデルがそうとは言い切れないが、山火事の頂点は山の頂点に一致する場合が多い。

同じようにエボラ出血熱では初めから決まった形のウィルスでは無く、無数の形状ウィルスが存在し、この事から一定まで感染繁殖した時、その初期の効力を失う傾向を持ったものと考えられ、これは繁殖し繊細になって行った為、変質速度が速すぎて感染生命体である人間の抗体変化の方が遥かに遅れ、その結果ちょうど円周上を一周した形になったウィルスが自滅したモデルが予想される。

ウィルスの増殖、滅亡は比較的良く知られたモデルでは有るが、この仕組みや原理の基本的な部分は分かっていないものの、その増殖速度と滅亡までの時間には一定の関係則が有り、急激に増殖するものの滅亡速度は速い。

先頃プリンストン大学の研究者である「John Cannarella」「Joshua Spehler」両氏によって発表されたSNSの滅亡論、所謂「Face book」(フェースブック)滅亡論は、その根拠を疫病とそれが収束していく過程をモデルにしていると言われているが、このモデルは他の社会システム理論でも解説が可能で有り、いずれはカードシステムやインターネット社会も同じ運命にある。

即ち拡大によって劣化したものを多く取り込み、その劣化に対抗する為に更なる劣化が生まれ、中が劣化だらけになって初期の利便性を失うからであり、カードを例に取るなら新規申込者は一定の収入が有れば簡単にカードを取得できたが、経済が山の頂上から転落を始めるとその初期の条件は変化し、一端劣化したものは復帰が難しい。

更に経済は元々波だから山があれば谷が有り、時間経過と共に谷の回数が増えて劣化した者がどんどん増え、そこで入会規定が厳しくなって新規入会が減少し、中身は劣化した不良債権と、優良なカード利用者とはカード決済を利用してない者を指す事になり、利益率は年々減少し使いにくいものとなって行き、やがて来る新しいサービスに駆逐される。

これはパソコン市場も同じで、一つの場所に座るなりして画面を見ながら操作する行為より遥かに機動力の有るスマートフォンの出現によって、パソコン市場が限られたものとなって来る中で、例えばブログサービスなどは広告収入が減少し、やがてサービスの打ち切りか、サービスの有料化が始まってくる傾向が現れ、ブログユーザーは一挙に減少する。

また生物には「自己範囲」と言うものが存在し、どんな生物も一定の距離まではそれが自分に利する事なら歓迎するが、この距離を過ぎるとあらゆることが利とはならず、負担となっていく。

つまり仲良くなっていく事は、より面倒な対応を増やす事になるのであり、この点ではSNSなどの比較的狭い範囲の親密な関係は、一定の発展を過ぎれば全てが負の材料となってしまい、こうした関係ばかりにコミュニケーションを依存していると、最後は漠然とした支配から抜け出せなくなり自覚症状の無い内に精神を病む。

その精神を病んだ者が多数を占める中、視覚的に表現するならモンスターやゾンビと化した者の中で、善良な者の存在を求めるなら規制や監視がどんどん強化され、それがface bookであればその大きな枠の中にまた小さな枠を作らなければならず、これによって初期のface bookの範囲や概念は失われる。

発展して行けば行くほど既に消失した面積が増え、内容が無くなり情報は劣化し、人々はまた新しいサービスを求めて彷徨うが、そこでまた新しいサービスが出てもやがてこれは同じ道を辿り乍堕ちて行き、いつしか人類は「情報の破裂」を起こす。

就寝時間を除く一日の5分の1の時間を、たわいも無いコミュニケーションと言う呪縛やゲームに費やしている社会では生産性の向上など望めず、隣にいながらスマートフォンで文字会話しているようでは、到底生身の男女の付き合いなど続くはずも無く、離婚の増加、非結婚希望者の増大は避けられない。

最後にコミュニケーションに付いては男女差が有り、男性のコミュニケーションは並列であり、女性のコミュニケーションは対面である。

即ち女性のコミュニケーション概念から来る友人は「共感」「相互批判しない関係」「支持出来る関係」「共通の目的」などであり、この中には緩くだが共通の敵を持つ者同士の「共感」が存在する。

簡単に言えば今の社会的傾向は女性的コミュニケーションの時代だと言う事であり、ここで言うところの男女の概念は社会的なものである。

現代社会の傾向が女性側に力関係が傾き、それに引っ張られる形で男性のコミュニケーションが女性化してきていると言うことなのかも知れない。

そして日本に付いて言えば、face bookの滅亡もさることながら、民族的滅亡状態に向かっている事も忘れてはならないところかも知れない・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 偶に電車に乗るとスマッホの人は殆どゲームです、それ以外は多分SNS、儚い戯れ(笑い)

    大涅槃経の生者必滅と言うこともこの延長線なのでしょうかね。その行き着く先は、諸行無常。
    小さな趣味のみで付き合って居ると、多分その点では急速に接近するでしょうが、幅が無いので、急激に飽き来て、長続きしないばかりか、攻撃する様な事も発生しているようです。

    荘子の君子(これは勿論、論語とは意味が違うようですが)の交わりは淡きこと水の如し、ですが、そこには深い理解や共感があるんだろうと思います。
    何気なくテレビの「人○の楽園」を見ていたら、食材持ち寄って~~で、アワビやイセエビが有って吃驚仰天、長続きしそうにない、後カフェとか開いて、お披露目とか、自分から見ると累卵の危うき(笑い)

    『無邪気で爛漫な子どもたちが、台湾、支那、ロシアに対する戦争において、勇敢な兵士になったことは、礼儀、優しさ、行儀の良さが、戦場における完全なる勇気や耐久力と無関係でないことを示している』と言う事を書いている本が有って、軽躁が剛勇じゃないように、遠慮が臆病じゃないように、見かけではなく、しっかり本質的な人間性についての教育が数量化できないと言って放逐されているようで恐い所が有ります。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私が最も恐れる人間と言うのは誠実な者、家族や人を思う者、貧しい中から這い上がろうとする者かも知れません。
      またもしかしたら金の為なら何でもする人間と、金では絶対動かない人間は同じかも知れない。この両者は全く逆の入口から入って同じところで同じものに立ち向かう。
      インターネットの情報や付き合いは、会って話していれば多少は加わる「負」を避けて美味しいところだけ、自分の都合のよい部分だけになり、この中で更に程度の浅いストレスが発生し、ストレスに対する耐性を失う。自身が今本当に必要とする情報はそう多くは無いのですが、今の社会は必要のない情報の方が余計に入ってくる。
      そして日本が今最も必要とするのは生物的粗野な部分と、親の教育かも知れません。仰るように教育は国家の根本で有るにも拘らず、人権や個人の尊重と言う大義をはき違えたものになっている事から、きっと今の日本人は世界で一番弱い民族になっているだろうと思います。
      日本は大正時代にも同様の時期が在ったように思うのですが、その時に人々が感じた虚無感よりおそらく今の虚無の方が深い。
      私たちはやってくる「何か激しいもの」に対し、心も物も両面から備えておかねばならないだろうと思います。

      コメント、有り難うございました。

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