「情報は誰のものか」

人間のコミュニケーションは情報の交換である。

例えば露店でたこ焼きを買う時、私達は自身の容姿と声、それに目の動きなどの動作、なまりも含まれる言葉の種類などの情報を相手に公開し、その様子からこれは金が貰えそうだと言う露天商の判断が行われて契約が成立するが、ここでの契約と情報の範囲はたこ焼きを買う事と代金を貰うと言う相互に単一の目的しかない。

よって我々も露天商も相手に対してそれ以上の情報収集の必要が無い事から、たこ焼きを買って代金を払った直後に情報の関係は清算される。
しかしどうだろうか、日々我々の元へ送られてくるダイレクトメールや保険勧誘の電話などが、どうして自分の住所などの情報を知り得るのか疑問に思った事は無いだろうか・・・。

この仕組みは簡単な事で、例を挙げれば日本生命で保険に加入するとベネッセからパンフレットが届き、東京海上日動火災保険で自動車保険に加入すると、オリックス系から生命保険の勧誘が発生すると言った具合で自身の情報が他者にも利用されているからである。

勿論保険加入時に保険会社は情報は契約意外一切使わないと言うが、これが使われたかどうかを立証する事は難しく、この辺は全てに措いて不透明になっている。

また現在のように情報主導型の経済では品質よりも情報を持つ方が利益率は高く、従って企業は生産コスト削減から自社生産を海外の安い労働力に頼り、顧客を見つける電話アポイントもアポイント専門会社に委託、商品説明も外部会社に委託し、契約まで契約専門会社に委託する形式になりつつあり、この点で言うなら経済の全ての比率が情報と言う時代になってきている。

為に情報を提供する側は一社に提供しているつもりでも、それが外部委託会社に出された途端その他の情報と同じ事になってしまい、個人が保険契約をする場合でもこちらは個人のつもりでも、その情報は企業にとってはその他多くの情報の一つでしかなく、ここに情報を扱う慎重性は個人と企業では問題にならない差が生じている。

振り返って冒頭のたこ焼きを買う場面はどうだろうか。

ここではたこ焼きを買う為に開示される情報は必要最低限だが、これをネットで買うとなったら大変な事になる。
メールアドレスは勿論、ネットバンキングの口座名に番号、送付先住所や電話番号などあらゆる情報を提供しなければ手に入らないが、その情報を管理する側はその他多くの情報の一つである。

いずれそうした情報が外部へ露出する確率はほぼ100%と考えて良い。

ネット社会へ参入した時点で自分は丸裸になっていると考えた方が良く、こうした中で一切後ろめたい事の無い人間は死体の状態以外有り得ない事になる。

では一体どうして自分の情報を守れば良いかと言うと、露店でたこ焼きを買う事を思えば対策は簡単である。
自分が動けば良いので有って、そこを動かずに時間をかけずに済まそうとするからネット検索を使い、そこから伸びた情報がnode(情報の端末、分岐点)に引っかかるので有る。

つまりは自分で出かけて買いに行けば、必要以外の情報が漏れず、またこれが出来なくても用の無いものを検索しないと言う事でも情報の散逸は防げる。

そして現代のようにトヨタのプリウスやホンダのヴィッツですら、何百万台と言うリコールを出す社会を鑑みるなら、どの企業も情報に追われて生産品の質が下落している事は明白であり、これはいつか必ず情報不安、情報の信用不安が発生し、やがては以前のような品質で勝負をする企業が見直されてくる事は必定、いや既に初めからその兆候が有ったからこそ、人々の情報はローカルな情報に向かうのである。

政府が特定秘密保護法案を成立させた背景には、現在の日本国内の情報管理制度が無秩序に近い状態だからとも言える。
しかしこうして政府が法案を作り罰則を作る事で情報の漏洩が止まるかと言えば、それは不可能であり、ここでは人に聞こえないように情報は漏洩される

秘密はそれを知る者の数の少なさに比例して保持率の高さがある。
しかし一国の政府ともなればその数は尋常ではなくなり、当然管理する職員は個人であり、その個人に取ってはやはり多くの情報の一つにしか過ぎない。

どんなに厳しい管理体制でもこうしたネット社会では完全な秘密保持は不可能である。
加えてこうした情報を権力で抑圧した場合、その延長線上にはプロパガンダが有る。

特定の情報を放出し、特定の情報を秘密にする事は大衆の判断を特定の道へと導く操作に同じで有り、これを始めて行ったナチスドイツのヒトラーのラジオ、新聞操作が結果としてドイツ国民を如何なる禍に導いたかを考えれば分かる。

ネットと言う、誰もがその世界の中では丸裸になる確率を持つ媒体で行うプロパガンダは、情報そのものの見かけ上の公正さを奪い、やがてそうした情報に逆らう事は無くても、下が腐って情報の全てが信頼を失う確率が高い。

ネット社会の情報は基本的に相互交換情報である。

従って情報を探る者は自身の情報をも晒していて、殆どの場合自身が受ける情報より、こちらが探っているはずの相手が受ける情報の方が多くなっていて、これは検索と言う一見何の害のもなさそうなものに措いても同じである。

どこかのnode(分岐点)にキーワードが引っかかっただけで簡単に糸を手繰り寄せることが出来てしまう。

例え天地人に恥じぬ暮らしをしていたとしても貶められ、友は信じられてもその友の友は信じられず、友の友の繋がりがネットの基本で有るなら、この社会で信じるに足る者はただ一人して存在できない。

それゆえネット社会の安全とは、できるだけネット社会から離れたところを意味し、その基本は「自分が動く」と言う事になる訳である。

[本文は2014年2月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。