「形に拠る言葉と、心情の醸成」

ここに非常に部下思いの上司がいて、職責は部長としようか、彼が部下達の日頃の働きに感謝している事を形に示そうとして居酒屋で宴会を設けたとした時、これに反対する部下は勿論存在せず、彼等は皆「有り難うございます」と言うだろう。

そして実際宴席では部下達が皆笑顔でそれを楽しみ部長に感謝し、二次会のカラオケでも大いに盛り上がるに違いない。

これはこれで良い事なのだが、「有り難うございます」と言っているからと言って、部下達が本当に感謝しているかは別の問題、笑顔で盛り上がっているその笑顔が本当の喜びで有るかどうかは別の問題になる。

酒の宴席が価値観を持っていたのは1980年代前半までの事である。

国民の多くが貧しく、酒を飲む事も我慢しなければならなかった時代の宴席は慰労としての価値が存在していた。

しかし現在は1980年より貧富の差が大きく縮小し、少なくとも働いている者で有れば酒を我慢したり、居酒屋の料理が珍しい訳でもない。

加えて飲酒運転に対する罰則の強化により、車で通勤している者にとっては、酒の宴会によって発生するタクシー代や、代行運転費用を考えるなら「迷惑」の領域に差し掛かるものとなる。

が、部長の誘いともなれば断る事も出来ず、「有り難うございます」と言い、不機嫌な顔も出来ないから笑顔で宴席を楽しむ様子を演出し、更には聞きたくも無い同僚の下手なカラオケに拍手し、遅くなって帰る事になる為、いかにも不機嫌な女房殿に「いや~、本当は行きたくなかったんだけど」などと言い訳の一つもしなければならなくなる。

これが現実ではないだろうか・・・。

人間は自分が費用を払ったり、或いは人をもてなしたら、その対象者が喜んでくれるものと思っているが、これは大きな勘違いであり、酒食の価値観は既に低下していて現在は「時間の価値観」「経済の価値観」である。

つまりは長い時間自身が時間的拘束を受けるストレスが、酒食と言う恩恵を遥かにしのぎ、気持ちや心は金銭に置き換えられる時代になっているが、これを嘆くに及ばず、遠く4000年の昔から宴席とはこうしたものだった。

それゆえ形を当てにしてはならず、同じ事は葬儀でも存在し、葬儀に参列している人が皆故人の死を悼んでいるとは限らず、状況的に仕方なく参列している者も存在する事を知らねばならない。

或いは恋人同士でも、彼女や彼氏が笑っていたとしても、その笑顔は心から嬉しくて出ている笑顔か、それとも自身がそれを望んでいるからそうしてくれているのかの区別は判断できない。

恐らく本人でもそこに明確な区別は無いだろう。

笑顔や感謝の気持ちですらこんなものである。

人間の話す言葉などもっと正体の無いものなのだが、自身が良い事をしていると思っている者の目は決してこうしたところに向く事は無く、自身の推定で皆が感謝していると思っているだけである。

人は嘆き悲しみ恨む事は多くとも、感謝したり喜ぶ事は少ないのが正しい姿である。

それゆえ感謝の言葉の多くがそう言わなければならない状況に圧されてそう言っているのが常であり、本当に笑顔になれる時など一日に一度でも有れば良い方だが、こちらも状況に圧されて笑顔になっているだけで、この点で言えば人間の笑顔の大部分は偽りである。

その本質が笑顔とは相対するところに有るからこそ、笑顔でいなくてはならなくなっているだけかも知れない。

人の表情や言葉と感情は常に一致しているとは限らない。

だが冒頭の宴席の話に戻るなら、こうして心では反対の事を思っていても、状況によって感謝したり笑顔になったりして、それ以後も会社に所属する限りその時見せた笑顔が偽りで有ったなどと発言する事は無く、部長が会社を定年退職した後も付き合いが続くかも知れず、この時は過去には面倒臭いだけだった宴席を有り難かったと心底思うようになっているかも知れない。

そして部長にしても途中で部下がどう思っていたかなど知る由もなく、「ああ、自分は良い部下に恵まれた」と思うかも知れない。

これが人間の感情と言葉、そして環境の関係である。

人間は心を外に晒して生きて行く事は出来ないが、時間経過と共に環境によってもたらされた言葉や表情が、やがて心情と一致する時も出てくるのであり、この反対も有る。

状況によって過去には一致していた心情と、言葉や表情が一致しない時も出てくる。

それゆえ人の言葉や表情は全て実にして虚なのであり、心情はその中で揺れ動き、いつも安定している事は無い。

言語や表情はこの世で最も信じてはならないものにして、この世で唯一信じられる「他」なのである。

[本文は2014年2月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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