「メタボになった通貨」

或る村に人参(ニンジン)を沢山持っている者がいて、その者は鍋が欲しいと思っていたのだが、同じ村で鍋を作っている者のところへ行き、そこで人参を何本渡せば鍋を譲ってくれるかと言う交渉をした時、実は人参は家にも沢山有って、50本も出さなければ鍋と交換する事は出来ないが、キャベツが無いのでキャベツなら5個で交換できると言われたとしよう。

この場合人参を持っている者は人参50本を出せば鍋を手に入れることが出来るが、それだと自分が損をするため、キャベツを沢山持っていて人参を持っていない者を探せば、或いは最終的に人参25本で鍋を手に入れることが出来るかも知れない。

こうしてあちこちに散らばった個人それぞれの事情を、同じフレームに入れて取り引き時に最も移動の手間がかからない代替価を換算する方式、フレームが通貨と言うもので、この場合通貨の概念は形が無くても信用だけでも成立するが、不特定多数が全て信頼関係で結ばれる事は有り得ず、従って権威者がこれを担保するその権威が通貨の本質になる。

これが国家の通貨と言うものだが、一般的に我々が「消費」と考えているものの概念は「等価交換」がその本質であり、消費と言うと何か唯無為に食べて失くしてしまうような印象が有り、経済活動的にも精神世界的にも言葉としての不適切さがある。

我々が働いて金銭を得るのは自身や家族が生きて行く為の物であり、この点では通貨は個人の事情で全てが特殊需要になってしまう需要の分散、平均化の役割を果たしていて需要の最効率化をもたらすが、どこかで未来に対しての需要に備えようとすると、そこから通貨の不足が生じ、この不足に権威者が通貨の供給を増やせば通貨の価値は下落し、通貨で未来に備える方式にはその以前と比較した損失が発生する。

そしてこうした事を繰り返している内に本来等価交換であり、その代替物だった通貨が本体の生産品目を支配し、物の価値を不安定にする作用へと働き、更には冒頭に有るように人参をキャベツに交換し、そこから鍋に交換する為の手間、所謂手数料が需要の効率化を超えてそれで利益を生むようになり、ここに民族的衰退が始まり、生産する者、働いている者が減少した場合、需要効率化に寄与すべき通貨取り引きの手数料が高騰する。

これが消費税の原理であり、消費税は通貨手数料の一種と言う事が出来るが、この通貨手数料が高騰すると、人々は通貨の更に代替品で取り引きを求めるようになり、これが投資取り引きや不動産取引、先物取引などの仮想の更に仮想概念取り引きになって行き、一方一般市場は通貨取り引き手数料の高騰から逃れようと通貨取り引き、つまりは消費を抑制する方向へと働く。

また通貨手数料が少ない取り引きに向かうので有り、仮想通貨や団体が発行する擬似通貨は今後も多く発生するだろう。
簡単に言うなら人参とキャベツの交換では消費税がかからないと言う事であり、これを信用で結びつければ手数料総額を抑制できる効果が発生するからである。

だがこれまでどうしてこうした事が考えられなかったかと言うと、人参を持つ人とキャベツを持つ人、鍋を持つ人がそれぞれの存在を認知できなかったからであり、これが相互認知出来るようになったのはインターネットの普及が始まった為である。

加えてピットコインに一定の信用が有ったのは、個人の取り引きをそこに参加している多くの連絡可能な「他」が認識している為であり、この点では個人の信用を守らせるために多くの「他」が相互扶助している制度だった為で、外からの不正が働かなければ、この制度は今まで国家や権威者が支配してきた経済の在り様を、民衆の市場の手に戻す効果を持っていた。

等価交換の代替価としての通貨は既に複数の手数料やら派生概念と言うゴミがくっ付き、重くて持ち運びには不便になってきているのである。

考えてみれば消費と言う言葉はまるで生きる為の事柄で物を買って食べる事すら、何やら後ろめたいような物言いで有り、今日明日食べる物を買うに付いても消費と言う考え方は理不尽だと思う。

それは生きるために必要不可欠なもので有り、基本的には等価交換である事を思うなら、今後通貨からの逃避傾向は益々増大するだろう。

ドイツなどはそれを恐れてピットコインの所有が1年を超えるものに課税する方式を採用したが、これなどは明確に通貨より軽いピットコインに通貨の重さを加えて動きを鈍くしようと考えたもので、その一方でこうした仮想通貨を認めた事にもなった。

通貨が発生した時代、通貨が必要だったのは需要の効率化が求められた為で、それは個人の認識や移動と言ったハードがとてつもなく重かった為で有り、これがインターネットで解消されつつある今日、人参を持つ者、キャベツを持つ者、鍋を持つ者が相互に瞬時に認識可能となった事から、或る意味国家や為政者の権威を本質とする通貨は、用済みの方向に有るのかも知れない。

ピットコインは今般の事で或いは規制をかけられ破綻するかも知れないが、通貨を使わなければ消費税がかからず、データ記録取り引きでは金融規制がかけられないとしたら、例えば大規模な物々交換サイトを立ち上げ、全てデータで取り引きする方式でもピットコインと同じ事はできる。

この事を考えるなら我々が消費と呼ぶものは、全て財物の交換、移動であると言う意味と、本来利便性の為の通貨が、既にどこかで人類のお荷物になっている事を今一度知らしめてくれたと言え、ピットコインは多数の被害と社会不安を引き起こしたが、それと同時に国際社会に対して通貨と言うものの意味を再認識させ、新しい経済の在り様を探る上で多くの課題と共に「可能性」を提起する結果になったと言える。

私は消費と言う言葉が大嫌いだった。

まるでキャベツの葉を瞬く間にかじって行く青虫を見ているような印象が有り、生きて行く中で物を買ったり食べたり、音楽を聴き映画を観ることが消費と言われると、どこかで自分の生きている事が否定されたような思いにさせられてしまうのであり、そこへ更に「税」などが加わった日には(怒)と言うものだ・・・。

[ 本文は2014年3月2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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