「暫定飲料水」

1970年ぐらいの事だったろうか、当時小学4年生だった私は良くヤマメを釣りに行って、そのヤマメをバスの運転手が買ってくれたので、ここは一挙に大儲けしようと考え、学校の池の鯉を捕まえてさばこうとして教頭に見つかり失敗、ついでいつも女子から殴られっぱなしだった事から、仕返しも兼ねて級友達がたまにやっていたスカートめくりの効率を上げようと、釣り針の代わりに針金を大きな釣り針状にしたものに糸と竿をつけた「スカートまくり機」を開発、これが二階の窓からもスカートがまくれると言うのでチョッとしたヒット商品になった。

しかし悪事は長くは続かないもので、「俺が作ったとは絶対言うなよ」と言っていたにも拘らず、級友達の自白によってこうした諸悪の根源は私である事が発覚、生徒総会で目を三角にした女子達に糾弾された上に校長室にも呼ばれ、この年母親は先の池の鯉事件も含めバカ息子のおかげで3回も学校へ呼び出しを食らってしまい、私が被った代償もとても大きなものだった。

実際スカートめくり機は怪我をしないように、針金を二重に使って先に針金の切断面が行かないよう安全面での配慮も為され、何度もテストを繰り返した労作だったが、こうした話は一切聞き入れて貰えず、親からは今度学校で問題を起こしたら近所の木の橋の欄干に吊るしてやると言われていた。

そこで今度は暑い夏になると、家の前から余り水を流していて、その水を通る人が飲んで行く事が多かった事から、水一杯を5円で売ってやろうと考え、ダンボールにマジックインキで「水、5円」と書いてコップを置き、更に金を入れるための籠を置いていたところ、一番先に祖母にこれを発見されてしまい、「バカかお前は・・・」と拳骨(げんこつ)と共に一蹴されてしまった。

現在もそうだが私の家は古くから湧き水を使っていて、こうした湧き水は使い惜しみや出し惜しみをすると枯渇すると言う伝承が有り、それをコップ1杯5円で売るなど言語道断だった訳で、私が子供の頃は家には水道の蛇口が無く、いつも水は竹筒から豊富に流れ続けていた。

だから水に関して一番最初に訪れたカルチャーショックは水道の蛇口だった。

家ではケチな使い方をすると涸れるとされていた水が、学校では無駄な水は流してはいけない事になり、更には用が無かったら止めると言う事に対して、家と学校で水に対する整合性が取れなかったのである。

そして水に対する整合性で言えば初めてカイロを訪れた時、空港でコカコーラと水が同じ価格か、若しくは水の方が少し高いくらいで売られているのを見て結構な衝撃を受けたものだったが、砂漠の地で有るならこれまた然りかと思っていたら、やはりこうした時期から日本でも水がペットボトルで売られるようになり、今日では水と言えばペットボトルの水を指すようになってしまった事は、何とも言えない感慨がある。

水は資源と言うが、この言葉はどこかで傲慢に思える。
私が幼い頃見ていた流れ続ける水と私の関係は「共存」、しかも私の方がそこから恩恵を受ける共存だった。

流れ続ける水は地球の循環の最先端に有り、その流れはやがて辿り付く海へと繋がっていて、時々その循環から少しだけ私の方に水が流れていたような、そんな感じがする。

それゆえ私は止まった水を危なく感じる時が有り、特にペットボトルの水には限りない猜疑心が有る。
水は流れているとそこに細菌や微生物が発生しにくいが、たまり水にはすぐにボウフラが湧き、微生物が繁殖する。

これを科学的に殺菌処理する時は沸騰させ蒸発した水滴を集めると「蒸留水」になるが、これだと水の味がしない。

だが常温の水に殺菌剤を入れると、ここでは殺菌剤の味がして飲めず、一番良い方法は蒸留水ではなく煮沸水そのものをフィルターで濾過し密閉する方法になるが、これでもその密閉が解放、つまりはペットボトルの蓋を開けた瞬間から微生物の繁殖が始まるのである。

実は日本の水道水の基準は世界最高レベルに有る。
科学的処理基準では、通常に販売されているペットボトル水より遥かに高い安全基準が設けられているが、家庭でも水道が有り乍テーブルの上にはどこそこの天然水等が置かれ、これを見ると私は非常に不思議な気持ちになる。

ペットボトル水の安全基準は水道水から見るとザルのような基準で、しかもミネラル含有と謳われながらそのミネラル成分が表示されていない。

ミネラルは基本的には溶け出した鉱物などであり、この成分は千差万別の組み合わせが有り、場合によっては調味料や歯科治療に使われる金属と反応するものがある。
しかも水道料金を考えるならコップ1杯の水はただのようなものだが、その数千倍の価格を支払って安全基準の低いペットボトル水を飲むことの整合性が私には理解できない。

過去ペットボトル水の普及段階初期には輸入飲料水が流通し、「海外の飲料水」と言う特殊性、ある種のブランド意識が存在し、これを炊き付けたのはバブル経済であり、ここでは無駄な最高水準が「水」に対しても求められ、その後渇水気候が頻発してくるとペットボトル水は価格競争を始めて来るに至り、今日では災害用としての需要も出てきている。

しかしペットボトル水は基本的に「暫定水」である。
特別に高価な美味しい水、或いは渇水時の非常用、更には災害時の需要に適してはいるが、本来水の豊富な日本に有って、ボトル水を消費する事は「過度」であると思う。

せめて水くらい美味しいものを、或いは手軽だからと言って常にそれを使う事は「普通」と言う一番合理的な部分を蔑ろにするもので、使われるペットボトルだけ考えても資源を蹂躙する行為と言える。

国家が貧しくなったり、或いは気候変動や災害による非常事態が解消されたら「普通」に戻る事の大切さが日本人には欠けている。
水は地球を循環しているものであり、この中であらゆる生命が育まれ、そこに人間もまた命を繋いでいる。

完全な殺菌を行ったもの、または人間に都合の良い物は完全な状態を不完全なものにした状態と言え、水に対して安全を求めれば求める程、人間はトータルで弱くなって行き、「恐れ」が増えていくのである。

[本文は2014年3月23日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。