「飽和反転経済」

「過ぎたるは尚、及ばざるが如し」
過剰に生産された物資は基本的に「損失」で有り、この場合提供された労働生産力も含めて全てがマイナスになり、企業で有れば経営を圧迫する。

従って企業は需要に合わせて物資を生産しなければならないが、需要の動向が不安定な場合、その将来を或る程度予測して生産を起こし、それを保管する費用と該当する金利などを予め含んだ金額を、需要が存在している時から定めて置かねばならないが、極端に景気が落ち込み需要が消失した時期が長くなると、当面の決済の為に利益が必要になり、当初決めていた価格より安くても販売せざるを得ない状況になる。

そして需要と供給の関係は条件によって左右され、言い換えれば需要は価格の下落によっても存在するのであり、この需要でも生産原価を下回る価格でしか取り引きが成立しない場合、そこに生産側のコストダウンに関する企業努力が必要になり、更にこれを超えると「需要の創出」と言う取り組みが必要になるが、この状態の本質は生産の飽和である。

需要の創出と言う言葉が出てきた場合、それは通常概念の需要が消失しているか生産飽和状態に有って、更なる需要は基本的に存在していないと言う事であり、デフレーションとはこうした経済の収縮を意味し、日本のような少子高齢化社会では年々歳々発生する需要より失われていく需要が上回り、常に生産は過剰になって行くのが普通である。

つまりマクロ経済では昨年より今年の売り上げが減少して行くのが正しい在り様となり、売り上げが上昇する事の方が異常事態となるが、政府も国民も毎年基本需要が失われていく事を解っていながら、それでも尚景気が良くなる事を望むのは、どこかで現実が見えていないとしか言いようが無い。

また政府や経済の専門家、或いはマスコミでも使っている「需要不足」と言う表現だが、これは経済云々の問題より「言葉」としても既におかしい。
需要とはそれを必要とする現実、或いは必要と思う気持ち、または将来の予定で有って、不足と言う定義は有り得ない。

テレビや車を買おうとする国民の気持ちが不足しているなど、一体どこからものを見ているとそんな言葉が出てくるのか、まるで最初に生産量が存在し、それに合わせて需要が存在しているかのような物言い、つまりは生産者や販売側の都合からの目線で有る。

需要とは元々国民の側のものである。
お金が貯まったら家を建てよう、車を買おう、子供部屋の一つも作ってやりたいと思う庶民の希望の集積である。
これに不足が有ると思う者は、その経済の出口から入口を見ているようなものである。

需要の本質は民衆の夢や希望、生きる事の在り様そのものであり、これには本来過不足は存在しない。
需要が高ければ価格が上昇し、需要が無ければ価格が下落し、更に需要が無ければその生産を調整する事で市場の自然な判断が下される。

しかし需要が不足していると言うもの言いは既に市場を無視した概念で、「庶民の暮らしなど我がこの手の内に有る」と言われているに等しく、こうして追い詰められた生産が起こす需要の創出の正体は民衆からの搾取、民衆に対する不利益の拡散と同じ定義である。

今からもう30年も前になるだろうか、私が知己を得た外務省職員は日本の国民と言う言葉をいつも口にしていたし、通産省の職員でも石油権益交渉に当たっていて、企業の利便性を計るために寝ずに働き、過労死した者もいた。

彼らは決して特別ではなかった。
官僚と言えど日本と言うものを、国民を意識したものの考え方をしていた。

それが今は平気で「需要不足」であり、これに対して国民も何も思わない社会は、既にみんなが出口から、結果からしかものを見ないようになってしまっていると言う事であり、このような状況を私は「飽和反転経済」と呼んでいる。

あらゆる事が最初からマイナスのスタートで、それを穴埋めする事が最初に考えられる社会だからこそ、需要に対して不足と言う考えが発生してくる。
国家衰退の時には需要も供給も溶融して一体になり、そしてスパイラルで堕ちて行くものである事を後世の者たちに記しておく。

需要が無くなってから出てくる「需要の創出」は結果として本来企業が被るべき損益の大衆に対する拡散であり、この点で言えば金融緩和政策で円安を通して国民に拡散される流出税制と同じ事であり、国民はこれから先膨大な負担を強いられる事になる。

政府や行政にもみ手する者は生き残り、そうでない者は水道電気さへ止められ、或いは餓死して死んで行く二極化社会へと突入するが、その生き残った者にしても年々劣化が避けられず、このような社会こそ混乱の極み、滅亡した社会だと私は思う。

頑張った者が報われる、額に汗した者が報われる社会と滅亡で生じる貧富の差は違う。
前者は弱い者、貧しき者からは搾取しないが、後者は弱い者、貧しい者から搾取する社会である。
傲慢と卑屈が無関心と絶望の狭間で対峙し、相互に何も考えなくなった社会。

国家の滅亡とは焼け野原の瓦礫に帰した大地を言うのではない。
その民族が希望を失った状態を言うのである。

[本文は2014年4月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。