「溶融する国連」

権力は集中と分散を繰り返すが、この原因の一つに権力を担保する「権威の公平性」が有り、権威は暴力によっても成立するが、あらゆる統治手続きを暴力で為し続けることは、平和を維持する事と同じように不可能な事である。

そこには見かけ上でも正義や、皆が公平であると言う「正統性」が必要なのであり、この正統性の最も顕著な形が「公平性」となる。

だがこの「公平性」は常に比較対照のもので有る事から、あらゆる事象に公平性を求めると特殊が一般化し、ここに底辺から権力の分散が始まり、この段階でそれまでその地域が持っていた権力の秩序は崩壊する。

経済崩壊を起こしたギリシャ政府の政策は、一般的な職業までも公務員化し保障したことが原因の一端となっている事を見ても明白なように、公務員が持つ調整機能、言い方を返れば権限が分散されると、何かの手続きには小さな権力の束が必要になってくると言う事であり、始めからそれが束になっていれば手続きは簡略だが、これが分散していると大変な手続きになってしまう。

ここに1000個のトマトを販売しようとして、その販売許認可を得ようとすると、そのトマトを販売して得られる何倍もの時間や労力が必要となり、結果として経済は成立しなくなり、公平や平等の思想は必ず最後にこうした結果を発生させる。

国際連合(以下国連)には10の計画・機関が設けられ、その補助機関として20余りの機関が存在し、この中にはIMF(国際通貨機関)ILO(国際労働機関)、WHO(世界保健機構)などと言った予算額そのもが国連本体を凌ぐ規模を持ったものが有り、全ての分野で国連機関や国連計画とこの補助機関が重複し、実務上国連本体の機関や計画は機能していない。

また昨今の国際紛争に措ける調停事案に関しても国連事務局は全くその機能を発揮しておらず、この傾向は「潘基文」(パン・ギブン)が事務総長に就任して以来顕著になっているが、2010年度の国連予算40億ドル、PKO予算81億ドルのうち滞納額は本予算が4億ドル、PKO予算の滞納額は軽く20億ドルを超え、滞納が最も著しいのはアメリカである。

アメリカは拠出上限負担率である22%の国連予算負担義務が課せられているが、既に20年も前から国連が無駄な経費を使っている事を理由に負担金の拠出を制限していて、次に大きな負担義務が課せられている日本の10%と、そう大きな違いが無い金額しか拠出していない。

中国やフランス、イギリスなどは日本の半分の拠出金額であり、ロシアや事務総長を輩出している韓国などは上位10位にすら入っていない。

世界的な傾向として国連の重要性は薄れてきているのであり、紛争解決予算ではPKOの予算額が国連本体予算の倍額になっている事を見ても解るように、先の補助機関が本体機関を凌駕する機関になっている事と相まって、今や国連はその権力が各専門機関や補助機関に分散してしまっているのである。

PKOの予算拠出割合は常任理事国とその関係国の拠出割合が高く、この意味では全世界的意思決定予算ではない。

簡単に言えば「お友達集合予算」なのであり、アメリカと関係の深い日本はこうした場面でも多額の予算を拠出しながら、国際的発言力は無い状態なのである。

つまり国連の現状は必要な時に当事国が集まって物事を決め、予算もそれぞれに集め、名前だけ国連を使っている状態と言え、ここで国家的、政治的に独立した権限を持つ国連事務総長が国際紛争解決に奔走することなく、竹島を巡っては出身国である韓国の正統性を発言するなど、もはやそこに権威が存在していない。

今の国連は抜け殻なのであり、その中で日本などはユネスコが乱発している世界遺産登録などに一喜一憂している現実は、金を出しながら本体のキャラメルは人に取られ、おまけのシールを貰って喜んでいるようなものである。

ユネスコの活動には大きな懸念が存在する。

このまま各国の申請を国家間的平等を主体に、或いは人道を主体に許可し続けると、あらゆる場所が世界遺産になって開発や商業的活動が制限され、全ての地域が観光地化し、結果的にその遺産対象の、特に文化的な側面、基礎経済を破壊する可能性が大きい。

世界が後世に残さなければならない遺産など基本的には存在しない。
その時代を一生懸命生き抜く人こそが一番大切な財産であり、山や海は人の意思の外に在るものだ。

我々が後世に伝えなければならない事は、どんな事が有っても命を諦めず、争わず、みんなで仲良く暮らして行く、これだけだ。

こうした事すら叶わない社会や世界に在って世界遺産の指定など何の価値も無く、国連は列強国の傀儡にすら及ばなくなり、その僅かなお情けに群がる貧国の狭間で日本は金だけをむしり取られている。

国連の敵国条項は事実上失効しているが、しかし敵国条項から日本の名前は削除されていない。

まるで戦後保障のような形で、毎年アメリカに次ぐ予算負担を拠出し続けてきた日本は、これからの少子高齢化に鑑み、少なくとも敵国条項の削除を予算拠出の交渉として使っても良いのではないか。

国連に対する私の思いは、2009年9月23日にリビアの「ムアンマル・アル・カッザフィー」が行った国連総会の演説に同じである。

国連憲章など後ろへ放り投げるに資するものでしかない・・・。

[本文は2014年6月30日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。