1「国防とは何か」

日本国憲法第9条2項が存在する限り「自衛隊」の存在は違憲状態である。
この意味では日本は例え国防と言えども、武力を持つことが出来ない

日本国憲法が制定された当初、アメリカが概念する日本の国防は「小事」に対応したもの、国家の要件を満たす最低限の概念から始まっていた。

即ち朝鮮半島やソビエト(現在のロシア)、中国から一般の漁船が領海を侵犯しても何もできないのでは国家としての要件を満たせない、それくらいは日本が自国で何とかする為のもので、大事の場合、戦争やそれに近い危機に関してはアメリカが指揮権を持っていた。

その上で国際的道義上の独立国家として、「対等」と言う表現をしなければならなかった事から矛盾が始まり、今日も同じ問題で日本は悩んでいるが、現在の議論はその本質の半分の所で右往左往している状態である。

国家が所有する武力、軍隊は誰のものかと言う事が考えられていない。
日本の自衛隊は基本的には日米安全保障条約上の概念が強く、この意味ではアメリカ国防総省日本部隊と言う現実がある。

現在もし中国から軍事的攻撃を受けた場合、日本が単独でこれに応戦できないばかりか、アメリカ太平洋艦隊指令長官の同意がないと、現実的軍事作戦を展開する事ができない。
日本は国際有事に措ける最終的決済権をもっておらず、軍事的には独立国家ではないのである。

端的に言うなら領海識別権や領空識別権に関して、中国空軍機が領空侵犯をした場合、これを追い払う事はできるが、攻撃に関する事項は、アメリカ太平洋艦隊司令の判断が必要になると言う事である。

つまり日本はハエを追い払う事はできるが、それが戦争に繋がる危険性の有る場合は、アメリカと言うもっと大きな力の承諾が必要な状態になっている。

この意味では日本の自衛隊はアメリカとの関係に措いて存在する軍事機構なのだが、一方本当の国防とは何かを考えるとき、その軍事機構を最終的に動かす権限は国家に有り、その国家とは国民とその国民が支持する権威で有り、この部分は精神面、「心」の部分に相当するものとなる。

三島由紀夫が腹を切って伝えようとした事はその当時も、多くの者達に嘲笑されたが、現在はそれ以上にこうした事が理解されない状態と言え、我々は政府や国会に何を付託しているかと言えば政治や経済、言い換えれば自分たちが生きていく為の方策を付託しているが、「心」まで託しているのではない。

国家に措ける武力とはこのような概念がなければ、語ることすら危険な事になる。
もし政府が多くの国民の期待を裏切り、自身らの存続の為に愚挙を発生せしめ、国民の自由を阻害し、弱き者を権力で虐げるなら、国家の武力はこれすらも排除する権限を持たねばならない。

これが「軍」であり、この「心」や「日本」を意識するなら、太平洋戦争敗戦後既に70年と言う歳月が流れても、日本人は「天皇」の権威にすがっている現実は変わらない。

もし安倍総理と天皇が違う見解を出した場合、日本人がどちらを信じるかを考えれば解る。

それゆえ天皇家は、国民の負託によって成立した議会や内閣に対し、何も言わず承認して行く形が取られていたのであり、政府や議会は完全なものではないが、今の時点で国民の信託を受けている存在の法的正当性をして、国民の総意と判断せざるを得ない為で、天皇の権威は政治的判断をしない事をして保たれていたのである。

アメリカはこの事実を理解したが故に天皇の存続を認めた。
緊急時には政府のブレーキとなるに資すると言う、判断がはたらいた結果の天皇家存続だった。

もっと分かり易く言えば日本で一番たしかなもの、日本とは何かを考えた時、天皇がそれに一番近いか、そのもので有る事を最も良く知っていたからの、日本国憲法内の天皇だったのである。

[本文は2914年7月4日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。