補足記事「机上の権利」

実は集団的自衛権と言う日本語は存在しても、厳密な集団的自衛とその権利とは比較理論上のものである。

集団的自衛権と言う言葉が始めて出現するのは1945年、国際連合憲章第51条に定められた権利だが、事の発端は常任理事国に措ける安全保障理事会の「拒否権」に相対したものである。

国連の安全保障理事会には「拒否権」が規定されていた事から、理事会の決定が遅れたり、決議が取れない場合の有事に措ける同盟国間の参戦に関する規定を定めたもので、厳密に言えば「運命共同体」と言う概念が無ければこれを権利と考える事は難しく、「運命共同体」と言う概念が存在する国は日本とドイツだけである。

それゆえ日本では集団的自衛を自主的なもの、権利と考えがちだが欧米の概念は基本的には「義務」である。

戦争当事国と同盟関係に有る第三国の参戦は、その第三国が同盟国の為に参戦しない事に付いては確かに権利が存在するが、参戦する場合は敵国に対して宣戦布告をしなければならない事から、これは事実上の個別戦争である。

従って集団的自衛権とは、戦争当事国と同盟関係にある第三国の参戦を制限しない、これを国際法上違法としない為の間接権利、擬似権利法であり、昨今日本で議論されている集団的自衛権の概念とは大幅に異なる性質のものと言え、しかも国際社会では日本以外の国家は集団的自衛を権利とは考えていない。

日米安全保障条約の中でも仮に日本が他国と戦争状態に陥った場合、アメリカが日本と戦闘状態となった日本の敵国に対して宣戦布告するのは「義務」と明記され、この逆にアメリカが攻撃を受けた場合の日本の参戦は限定免除されている。

つまり日本政府の概念する集団的自衛権は、義務を免責されているものを解除する事を権利と考えているに過ぎず、こうした義務の概念はNATOでも同じである。

日本の政治家は戦争の概念を理解していない。

集団的自衛権の行使は「参戦」なのであり、これを判断するのは同盟国の敵なのである。物資、人員の輸送、資金供与、外交、機材供与、通信情報供与など政治経済、交通などその国家が持つあらゆる方面を戦争は包括する。

そして集団的自衛権の行使には国際法上、宣戦布告が義務付けられていて、一般的には弱小国が不利な立場になった時の概念である事から、例えば日本が中国に侵略された場合、アメリカが日米安全保障条約の義務に従って、日本から要請を受け中国に宣戦布告する事を国際社会は止められないと言う権利は存在しても、この逆でロシアとアメリカが戦争状態になった場合、日本の軍事装備や自衛隊が派遣されても、命令指揮系統の混乱が予想されるだけであり、アメリカが実戦参加を拒否し、資金供与の援助を求めるかも知れない。

或いはロシアと中国が同盟関係を結んだ場合、集団的自衛権によって中国が日本を攻撃する事を国際社会は止められない。

また中国とアメリカが戦闘状態に陥った場合、この時は集団的自衛権などと言う悠長なことでは済まされず、日本はアメリカより先に戦争状態になっている。

つまり集団的自衛権と言うのは軍事大国の権利だと言う事であり、その行使が国際法上「参戦」を規定している事から、集団的自衛権の行使は「戦争」なのであり、これをどう解釈しても日本国憲法第9条の規定になじませる事は出来ない。

日本政府が考えている集団的自衛権は事実上存在していない。
日本に与えられているものは義務と免責であり、集団的自衛権の行使は「参戦」の事である。

日本政府は国際法上の概念を全く無視し、自分の都合でしかないところで集団的自衛権を語っている。
集団的自衛権行使の容認は、国際法上「参戦」を容認すると言う意味である。
日本政府の解釈は明確に憲法の規定に違反している。

日本国憲法十章、九十八条に適合する事案であり、九十八条の適合を排除せしむるには日本国憲法九章、九十六条の手続きを必要とする。

尚、国会、内閣は日本国憲法の中で定められたものであり、日本国憲法を越えて権限を有していない。

[本文は2014年7月5日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。