「東京の雪」

一度は故郷へ帰ったものの、すぐまた田舎暮らしが嫌になり、家出同然で知人を頼って上野に着いた私は、取りあえず仕事を探そうと歩いていた。

どこへ行けば良いのか分からず、多分浅草寺裏側の付近だったと思うが、ぶらぶらしていてふと電柱の張り紙に目が止まった。
『時給1000円、随時面接可』のその張り紙に引かれ、何人もの人に道を尋ねながらその会社と言うか事務所までたどり着いた私は、一瞬で「しまった」と思い帰ろうとしているところへ、幸か不幸か中から人が出てきてしまった。

「何だおまえは」その50代後半の目つきの悪い男は上から下まで確かめるように私を見て胡散臭そうに尋ねた。
「はい、張り紙を見てきたんですけども」とっさにそう答えるしかなかった。
すると男の態度は急に穏やかになり、「そうかおまえ働きたいのか」と言うと「まっ、中へ入れ」と私を事務所に招き入れた。

社長との出会いはこうして始まったが、彼がその筋の人であることに気付くのにそう時間はかからなかった。
だが社長は良い人だった。
田舎から出てきたと聞いただけで目をうるませ、「俺が必ず一旗上げさせてやる」と言って、その晩は鮨屋に連れて行ってくれた。
またアパートも共同トイレ、風呂なしだったが敷金、礼金無し、家賃1万5000円のところを紹介してくれた。

仕事は「女の時間割と金貸し」だった。
クラブの経営と、デートクラブにはなっていたが、どう考えてもいかがわしい感じにしか思えないもの、ホステス専用の金融業を経営していたのだった。

しかし、この社長きわどいことをしていながら従業員のホステスはじめ、やたら女に人気があり、一緒に歩いていると声をかける女は一人や二人ではなかった。
この社長が紹介してくれたアパートは木造二階建て、築年数は数十年というものだったが、四畳半2間にキッチンが付いた部屋が6つあり、4部屋は先に住人がいた。

私は1階の左端から2番目の部屋だったが、隣はバーの経営をしていると言う男性で、40代後半にはなっていたように思えた。
また、一番右端には会社員と言うことにはなっていたが、30代半ばの女性、2階には芸能関係の仕事をしていると言う50代の男性、その一間隣には特殊な女優業、若作りはしていたが30代後半だろうなと言う女性が住んでいた。
つまりこのアパートには私を始め、まともな人間が住んでいなかったのである。

だがこうした環境でもみんな私には優しかったし、バーの経営者の男性や特殊な女優業の女性はしょっちゅうみんなを招いて焼肉や、すき焼きパーティーを開き、酒を飲んだ。

東京へ出てきて3ヶ月目くらいのことだったろうか、二十代で一番年が若かった私は男性二人からは「○○ちゃん」と呼ばれ、女性二人からは「○○」と呼び捨てになっていて、この晩もバーの経営者の部屋でみんなして酒を飲んでいたが、以前から金を貯めこんでいると評判になっていた30代半ばの女性に私は「どうしたら○○さんのような一流の営業になれるんですか」と尋ねた。

すると彼女はおもむろに私の右手をつかんでその上に新聞チラシを一枚乗せると、彼女の左手が下に添えられ、チラシの上からは右手が乗せられた。
「あったかいだろう。こうして100グラムのものなら100グラム、200グラムのものなら200グラムの力でそっと上から押すんだよ」
「もっと重いものならもう少し力を入れて押してやるんだ。そうすれば客はパンフレット1枚でも買ったような気になる」
彼女は少し苦笑いして私の手からチラシをとって下に置き、ヤキソバを箸ですくった。
これには一同「おー」と言う歓声があがったものだった。

だが、彼女はこの8日後自殺する。
東京に雪が降るのは2月が多い、これは春へと気候が変わるしるしで、太平洋側を低気圧が通りやすくなるからだ。
その日も晴れていながら東京には小雪が舞っていた。
朝7時ごろだっただろうか、「あぁー」と言う深い叫び声に私やアパートの住人は思わず飛び起きた。
見つけたのは彼女の母親と家主だった。

前日娘からかかって来た電話に異変を察知し駆けつけた彼女の母親は、荷造りロープを首に巻いてぶら下がっている娘の足を抱え、首に負担がかからぬよう持ち上げようとしていたが、その行為が既に意味を為さないことは誰の目にも明らかだった。
芸能関係の仕事をしている男性が近くの公衆電話まで警察に電話しに走り、部屋には私とバーの経営者、そして彼女の母親が残されたが、人間の足が地面から離れている光景と言うのは耐えがたく冒涜的なもので、彼女の母親は私たちに「頼む、降ろして欲しい」と何度も何度も懇願した。

バーの経営者はテレビの台からテレビを降ろして上に乗り、「○○ちゃん、下支えてて」と言うとロープをほどきはじめた。
このアパートの畳間には小さいけど床の間がついていて、その部分は他のかも居より高さがあり、上は簡単な欄間がはめ込まれていて、そこにロープが巻かれていたが、簡単にはほどけなかった。
台所から包丁を持ち出したバーの経営者は私に「しっかり支えて」と言うと一挙にロープを切ったが、彼女の腰から腹へ手を回し支えていた私は、ロープが切れた瞬間はずみで彼女を後ろから抱きかかえたまま一緒に倒れ込んでしまった。

顔に彼女の長い髪がサラサラとかかり、一瞬彼女が「○○が私に手を出すのは10年早いわよ」と少し笑って振り向くのではないか、いやそうあってくれと思った途端私の目から涙がこぼれた。

彼女の体はまだ弾力があったが、腰から足まで排泄物が流れ、冷たくなっていた。
すかさずバーの経営者は押入れから布団を取り出すとそれを敷き、私と二人で彼女を寝かして上から毛布をかけた。
彼女の目は堅く閉じられ、口は半分開いたまま、鼻からも汚物が出ていたが、彼女の母親はその顔を拭き、奥にかかかっていたタオルをかけた。
暫くして警察官が二人やってきて「何で死体を降ろしたのか聞かれたが、母親が「どうしても見ていられなかった」と言うとそれ以上何も言わなかった。

私は7歳年上の彼女が好きだった、姉のように慕っていた。
ネクタイの締め方がゆるいと、すぐ「それじゃ一流の人に会ったときバカにされる」と直してくれたのも彼女だったし、彼女のシャツはいつもピシッとノリが効いていて、スーツはダークグレーか深い紺色、余り高くないヒールの黒い靴は埃一つ付いていないほどに磨かれていた。

時計も茶色のベルトのシンプルなものだったし、ネックレスや指輪も一切付けていなかった。
姿勢が良くて同じ歩くのでも私とは違って颯爽としていたものだった。
いつも憧れていたし、彼女のようになりたかった。
彼女は時々私に「○○はいつかきっと大きな商いをするような男になる。その才能がある」と言って励ましてくれた。

以後今日までスーツを買えばダークグレーか深い紺色、シャツは白、靴下と靴は黒、時計は革のベルトでシンプルなものと言う私の美意識は彼女のものだ。

自殺の原因についてはあくまでも噂話でしかないが、マルチ商法に手を出していたのではないか、また先物取引をやっていたなどの話が出ていたが、明確な原因は分からないままだった。

このことがあって数日後、さすがに連絡先ぐらいは教えて置こうと思った私は、母親に社長の事務所の電話番号を連絡先として教えた。
程なく母親から社長にことの次第が伝わり、私は社長から殴られる、「てめーだけ面白おかしく暮らせればそれでいいってか、俺はそんな奴が一番嫌いなんだ」社長は本当に怒っていた。
これ以降私は都会へ逃げることをやめた。

でも、今も晴れていながら小雪がちらつく天気には東京を、上野を思い出す。
右手を出して目を閉じると、彼女の手の重さを思い出す。
あれから30年近くの歳月が流れた。
もし今彼女が私を見たら何と言うだろうか、「手を出すのは10年どころか100年早い」と言われそうで、せつない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 出来の良い小説よりも、もっと小説のような中で生きていたんですね。
    最近の小説は幾つか話題になったのも含めて読みましたが、本当の話だろうけれど、退屈だし、だから何なの、人に話して聞かせるほどの事も無い(笑い)か共感が無い物が多かったです。

    社長さん、アパートの住人、何となく少し今風に言えば、風変わりと言うか落ち溢れ気味にも感じますが、優しさが有って、惹かれます。
    共同トイレ、風呂無し¥15000/月のアパートにも住んでいました、蒲鉾の板の表札で、北西向きで4畳半で半畳の玄関/流し、一畳分の押し入れ、坐机が一つと炬燵だけ(笑い)
    亡くなった女性の方、純粋で優しかった気がします。自殺の理由は容喙すべきじゃない畏れも感じますが、失恋だった気がします。今だったら時代遅れと言われそうですが、自分の基準から軽くは批判できないと感じます。
    何と、スーツは自分の場合すべて、濃紺です、もう用は無いですが、有らねばならない不幸に巡り合わせません様に(笑い)。
    せつないことのみ多かりき。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      この記事を書いた時はまだ母親が存命中だったのですが、2年後脳梗塞から体が不自由になってしまった父親の介護に絶望した母親が、やはりビニールロープで首を吊ってしまい、私は泣きながらも台に乗って体を支えながら亡骸を落とさないように鎌でロープを切っていました。
      「ああ、2度目か・・・」と言う思いと、何故か遺体を降ろす事に慣れている自分が悲しかったですね。
      いつも早朝目が覚めると、どこかでは虚無感にさいなまされます。何もかもが全く意味が無いような気がして、ふっと自然に「死」が隣にやってきているような、そんな気がするのですが、こうした自身の命をこの世に繋いでいるのもまた、遠き日に憧れた女性の言葉なのかも知れません。
      「浅田はいつかきっと大きな商いをする男になる、私にはそれが分かるんだ」、彼女はもしかしたら要領の悪い私を励ましてくれたのかも知れませんが、絶望感に襲われた時、いつもこうした彼女の言葉が救ってくれてきたように思います。
      農業と職人をやっている今日、スーツを着る機会は私も少なくなりましたが、それでも時々スーツを着るとき、「ネクタイは締すぎても緩くてもダメなんだよ、一流の男は身なりもしっかりしていないといけないんだよ」と言って、結び目の膨らみを消さずにネクタイを締めなおしてくれた彼女の事をいつも思い出すのです。

      コメント、有り難うございました。

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