「法か血か」

一般的に最高裁判所に措ける上告事案では被告代理人の意見陳述や口頭弁論が為される場合、判決は前下級裁判所の判決が逆転されることが多い。

最高裁へ辿り着くまでの下級裁判所での審理や口頭弁論の過程で、あらゆる証拠や事情、事実が殆ど出尽くしているからであり、最高裁以上の裁判所が存在しない事から、ここでの判決が最終判決となる為、上告は棄却、却下されるか、前下級裁判所判決の逆転しか無く、前下級裁判所の判決を支持する場合は意見陳述等を求めない。

しかし前下級裁判所判決の逆転判決が出る場合、いきなり前の判決がひっくり返る訳だから、被告原告双方の心情と社会的影響に対して一定の配慮が為され、最高裁が意見陳述や口頭弁論の機会を設けるので有り、この事から最高裁が口頭弁論の機会を設けた場合、それは暗に前下級裁判所判決が逆転する事を意味している。

また裁判所は上級審に行くに従って社会的概念が大きくなって行き、最高裁が持つ法の概念は「憲法判断」や「国家の利益」にまで及ぶ。
この為民法の基礎事案である婚姻や家族関係の裁判、調停に対しては「心情」よりもむしろ「法の整合性」「社会的公平性」が重視される。

これは何を意味しているかと言えば、家族や男女の事など心情に関る事は下級裁判所範囲に留めて置かないと、原則で一刀両断にしかなりませんよと言う事なのであり、2014年7月17日、北海道、四国、関西で父子関係の取り消しを巡って争われていた3件の上告事案に対し、最高裁は民法772条「婚姻関係に措ける子の推定」を判決の拠り所とした。

親子の法的関係はDNA鑑定と言う生物学的事実より、婚姻関係と言う制度によって成立するとしたのである。

その要因の一点は「法」の改正は「立法府」でしか為し得ない事であり、社会環境の変化に「法」が対応できなくなった場合、或いは一般社会の意識変化に「法」が追いついていなくても、裁判所が「法」の規定に特別枠を増やすと、そもそも本体の「法」が蔑ろになる為であり、この意味では集団的自衛権解釈のような解釈の違いによる「法」規定の変更を最高裁が認めなかった事は正しい。

今回の北海道と四国、関西に措ける父子関係を巡る訴訟は、DNA鑑定などによって発生した事実と、制度上の法的家族関係のどちらを裁判所が認めるかと言う争点が有ったが、元々民法772条の規定を見ても解るように、父親と子の関係は「推定」なのである。

母親はよほど特殊な例以外自分が出産するので、ここでは親子の関係は確定している。
しかし父親は自身が出産しない事から、生まれた子供との関係は婚姻関係に拠る推定でしかなく、婚姻が父親と子の関係を担保し、戸籍によってそれが社会的に確定した事を意味する。

民法第772条では事実を確定としておらず、推定を確定するとしている訳であり、今回の3つの裁判では婚姻関係中に妻が別の男性と関係を持ち、そこで生まれた子供が後にDNA鑑定によって生物学的には婚姻関係の夫の子供ではない事が判明し、そこから父子関係の末梢に関して訴訟が発生しているが、最高裁は権利は法によって発生するものであり、生物学的事実から発生する権利がこれを超えないと判断した訳である。

そして概ねこの判決に対する社会的論評は、何か釈然としないと言う印象かも知れない。また一部の評論家は「子の幸福」と言う観点からも現実に反して法や制度を重んじた場合、子供の将来が危ぶまれると言う論線を張っている者も多いが、ここでは何か基本的なことが忘れられている。

婚姻は相互理解と契約であり、ここで婚姻関係に有る夫以外の男性と関係を持ち、更には夫以外の男性のとの間に子を設ける事は、本来契約違反、犯罪である。

だが実際に生まれた子供と言う事実が有る限り、これを犯罪として処罰してしまう事は出生した子の基本的人権を侵す事から処罰規定がなく、民事上の賠償責任や婚姻関係の解消と言う形で解決が計られるようになっている。

加えて日本の現在の性意識の崩壊に対し、最高裁が婚姻の制度より事実が重いと判断した場合、婚姻関係に在りながら妻が別の男性との間に子をもうけても、それが認められる事になる。
ここに婚姻と言う制度の形骸化が発生するのであり、婚姻制度が混乱すると親子や家族の関係は不安定化し、それがしいては子の生存権を侵すケースを多発させる危険性が有る。

また夫がDNA鑑定で自分の子供ではない事を理由に婚姻関係を解消し、更には子供との親子関係も解消できるとしたら、DNA鑑定上の男性が子を養育できる場合は良いが、それが経済的理由で出来ない時は元妻はともかく、現実的に困窮するのは子である。

この事を鑑みるなら安易に現実を容認していくと、社会的な認証であり互いの信頼を法が担保している「婚姻」関係の意味が失われる。
婚姻と言う制度は性的関係を社会が認める制度であり、そこに存在しているものは社会意識が性的モラルを失っていく事に対する一つの枠、或いは調整なのである。

そもそも婚姻関係に措ける妻の不貞によって生じた出生が、子供と言う事実によって容認されるなら婚姻は意味を為さない。
またDNA鑑定を根拠に父親が扶養義務を免れるとするなら、いずれ偽造鑑定書が出現してくる事は明白で、社会全体がDNA鑑定をし始めた時、そこに現れるものは「不信」でしかない。

一見時代遅れで融通の利かない印象の有る今回の最高裁の判決は、家族や親子の関係は信頼と理解によって成り立つもので有る事を示したと言え、あらゆる事が発生してくる事実によって「仕方ない」、「今回は特別」だと言って基本的な事を蔑ろにしてきた日本の、その風潮に一本の線を引くものと言える。

眼前に繰り広げられる現実は人の心情に勝る。
しかしその現実を唯容認していては、やがて人の心は拡大し暴走する。
婚姻は国家が認める人間の関係であり、義務と責任が発生する。

婚姻と言う関係を安易に考えていた者は今回の最高裁の判決に鑑み、今一度その制度が持つ重さを再認識して頂きたい・・・。

[本文は2014年7月18日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。