「相反修飾言語」

桜の花が散る様に「はらはらと・・・」と言う表現が有るが、私達は現実にこの「はらはら」と言う音を聞いた事は無い。

「凛として立つ」の「凛」は音韻から始まる文字だが、人が立って「リン」の音が聞こえる事も無い。
「ひたひたと迫る足音・・・」も、人が歩いてひたひたと言う音がする事など有り得ない。
だが我々は「はらはらと・・・」と言う言葉の中に皆が同じように桜の散る様を思い浮かべ、凛として立つ人の姿を知っているし、ひたひたと迫る足音がどう言う状況かも解る。

このような表現を「擬音表現」、「虚音表現」と言い、視覚的にこうした形を持つものを「虚描表現」、或いは「虚構表現」と言う。

恐縮と言う文字にしても、人間が恐れて瞬間的に身長が低くなったり体重が減る事は有り得ない。
でもその姿は日本人が皆イメージできる。
蒼天(そうてん)の「蒼」とはどう言う色かを示せる者はいないが、その空の色は皆が理解できる。

芥川龍之介が松尾芭蕉の俳句を評した中で、このような実際には有り得ない音や情景を通して、他者にその場の感覚を伝えようとした技法を称賛しているが、厳密な事を言えば人間が使っている文字や言語の「固有名詞」以外は、程度の差は有っても全てが「虚」であり、その固有名詞も社会的約束である。

人間社会に措ける個人の行動はほぼ同じである事から、例えば桜と言えば、それぞれが思い浮かべる桜の木は違えども、基本的には桜と言う木を認識でき、同じようにその花びらが散る様を見ていて「はらはらと・・・」と言う情景も容易に理解する事が出来るが、「はらはらと・・・」と言う言葉が一番最初に使われた時、それを理解できた者は少ない事になる。

今日我々が平易に使っている言葉は、ある種我々の先祖が育み伝えてきた社会的には無意識に発展定着した表現と言え、その言葉も他の表現から影響を受け、そこから発生してきているものなのである。

我々が見ているもの、聞いているものとは社会が構成しているものとも言う事が出来、文字や言語は我々が持つ視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚などの「五感の幅」なのであり、「虚」を通してそれぞれの人間が見たもの、聞いたもの、触ったものや味などの「実」を示している事になる。

「虚」によって「実」を理解しているのである。
それゆえ文字や言語の表現が多く存在する社会は感覚的に豊かな社会と言う事が出来るが、一方文字や言語が多様化すると統一的表現言語が少なくなり、ここに表現の約束としての言語や文字が失われ、言語や文字の方向からも意思疎通が希薄になる社会傾向が現れ、年代や思想ごとに、経済的環境ごとに分離した社会が発生してくる。

日本の現在の言語形態は標準的な日本語、方言、英語、ラテン語属の名詞、科学専門用語、経済専門用語、メールなどの文書言語、携帯やスマホなどで使われる絵文字などあらゆる方向に発展し、それが入り乱れて既存言語の意味が変調し始めている。

「メチャ美味しい」などの言語はメチャクチャと美味しいが合わさったものだが、「滅茶苦茶」と「美味しい」は本来反対方向に有る言語で、例えば私が20代の頃に「メチャ美味しい」などと言ったなら、「馬鹿かお前は・・・」と言われたはずであるが、現在では70代の方でも普通にこうした表現をする。

私は若い者ならともかく、結構な年齢の者が「メチャ美味しい」などと言っている場合、その人間がどこかで軽く見えるし、信用できない。

意思疎通の初めに拒絶が出てくる事になり、漢字で書けば良いものをそれらしく英語で言って見たり、唯の受付案内をフランス語の「concierge」(コンシェルジュ)と言ってみたりと言う具合で、日本の言語は殆ど錯乱状態である。

ちなみに「concierge」とはアパートの管理人の事であるが、同じように「ソムリエ」などもその語源は「sommier」、つまりは日本で言うところの大八車であり、これが野菜にまでソムリエを名乗っている者も存在する現状は「stulte」(愚か者)の状態である。

そしてこのように言語が混乱してくると、社会が育む言語、「動詞」や「形容詞」が「名詞」に近付き、或いは名詞と合体した動詞や形容詞が発生するが、言語の名詞化は「単純化」を示し、冒頭の桜の花びらが「はらはらと・・・」と言う表現のように、涙を流す時にも同じ表現が有る様な表現の重複性を失う。

言語の意味が幅を失っていく結果、それに重さを加えようとして最上級の表現の上に相反形容詞や相反動詞をくっつけて表現するようになる。
これが「メチャ美味しい」などの「相反修飾言語」なのであり、これによって訪れるものは嵐のように激しい言語で有りながら、何も伝わらないと言う現象を引き起こすのである。

言語は修飾や装飾が多くなると、一見丁寧なように見えて軽くなったり不信を与えたりする。
「良い物」と「素晴らしい物」では本来「良い物」の方が「過」が無くて落ち着きが出るが、それは歴史上「良い」が最上級だった時期が長い為で、「素晴らしい」と言う表現の方が歴史が浅いからである。

日本の今の言語はこの「素晴らしい」の上に「メチャ」を持ってきているのであり、「メチャ美味しい」と言われても、湯気が立ち、ほのかな香りが漂い、温かくて、しいてはそこから遠い過去に手を引いてくれた祖父母や両親、自分の有り様などを想起させてくれる味を感じる事はできない。

人間の五感は現在、未来、過去を連動したものであり、我々はものを食べていながら景色を見て音を聞き、景色を見ていて感触を感じ、音を聞きながら風景を見て香りを感じている。
言語や文字は「虚」にして眼前に広がる現実を現し、そこに意味を多く含むものほど、より深く現実を知ることが出来る。

ただ悪戯に名詞をすげ替え、装飾の上に装飾を重ねた言語や文字では、何も伝える事は出来ない。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。