「その先を問わず」

「食」と言う漢字は倉庫に集められた良い穀物の「集」、穀物の良い香りの「香」の合字で、意味は代表的なものだけでも20以上存在し、一つの「観」を形成し得る広い範囲を持つ漢字だが、一般的に我々が認識している「食べる事」以外にも祭る事や祭られる事、騙される事、経済の事、耕す事に失っていく様、「お」や「す」、「け」のような形容詞的修飾、侵略や侵略される様、欠損していく過程、「職」の一部と「召」の一部、「寘」「受」「向」の連続性前過程を包括している。

この為我々が通常「食品」と言う言葉から受ける印象として食べ物などを思うかも知れないが、後に失って行く事の連続性が有り未来には失われる事、失われる品をも意味している事になり、「食わせる」とか「食わす」と言う事は、後に失われるものを与えたり差し向ける事、虚に近いものを与える事を意味し、簡単に言えば「偽ること」「嘘をつく事」も初めから含まれた意味を持っている。

つまり「食」は事が虚に転ずる一歩手前の状態を指していて、「食」が持つ「侵性」とは毎日ゆっくりと、しかし確実に穀物が減っていく倉庫を現していて、これが一滴づつ滴り(したたり)落ちる水が広がっていく様と対比関係に有って、そこから減っていく様と侵して行く様が当事者を離れた「無」、「天」から見れば同義と解釈されたのである。

従って「食」は失っていく事と、広がっていく事の相反を同時に概念しているのであり、集められた香りの良い良質な穀物は失われる為に集められ、尚且つ歴代中国王朝で良質かつ、薫り高い穀物で倉庫が満たされた時は僅かしかなかった。

また「食」が持つ動的意味は「相手を選ばず、全く意思を持たず、ひたすら前に存在するものを侵す」であり、これは生きる為には如何なる是非も問わず、ひたすら食べなければならない生物の本質や資本主義の原理に同じで有り、この対比線上には完全で有るか否かと言う議論の緩い否定が存在する。

「食」は僅かずつで有ろうとも前進、拡大以外に無く、後退が無いものなのであり、これはその先が如何なるもので有ろうとも否定、前進を止めることが出来ないもの、もっと言うならそうした意思を持てない無機質性の有り様と言え、自身で有りながら自身がコントロールできないものと言う概念なのである。

実に言い得て妙と言う事が出来るが、人間も心と体は表裏一体で有りながら、生きようと意識せずとも体は既に生きる方向に常に動き、死にたくないと思っていても体が死ねば終わりになる。
死で有ろう生であろうと、それがわが身で有りながらわが心では決められず、過去には戻れないのである。

そしてここに貨食(かしょく)と言う言葉が有るが、これは宝物を指すと同時に広義では経済を指していて、食の持つ動的意味や虚の一歩手前と言う在り様を鑑みるなら、実に良く経済の本質を捉えていて尚、人も他の生物も同じで有る事を示している。

その上で再度「食」の持つ先を問わない前進から見える「その先」を考えるなら、善も悪も無い、何も無いと言う事を現しているようにも思える。
結果は同じだと言う事である。

先般中国に在るアメリカの食肉加工工場で非常に不衛生な肉が加工され、それが大手のファーストフード店で販売されていた事実が発覚し、世界的な衝撃となったが、実際にはこうした不衛生な環境は昨日や今日突然現れたのではなく、その遥か以前から始まっていて、不衛生な加工肉も随分と以前から販売されていた事になる。

しかしそれで誰かが死んだか否かと言う事になると、死亡率は加工肉を食べた群れの人達も、食べなかった群れの人達も同じランダム数値だったはずである。
人間の概念する安全性と言うのは殆どがその印象である。

実は自然死、交通事故や災害、戦争や政情不安など全ての死亡案件を加えると、その国家全体の死亡率はそれほど激しく上下してはいない事が解る。
例え戦争が有っても、50年の単位での死亡率では平均化してしまうのである。

災害での死亡が減少すれば自殺が増えたり、そうかと思えば災害死亡が増加すれば交通死亡事故が減少したりと、その国家の死亡率や健康障害の確率は何か一つの要因で増えても、他の要因で減少したりして大きな変化が無く、特に食の非安全性で失われる健康障害増加率は他の事由によるものと比較して突出していない。

むしろ全く影響が無いと言っても良いくらいのものかも知れない。

農薬は危険だと言うが、現在長寿を全うされている方々は戦後間もない頃、今の中国より更に劣化した危険農薬食品を口にして命を繋ぎ、今日に至っている。
それに比して、少なくとも戦後間もない頃よりは農薬に関してデリケートな時代に生まれた若年世代の平均寿命は、現在より低下する恐れが指摘されている。

また食に関しても経済的にも豊かな先進国では、その食に対するデリケートさから硬い食べ物が減り、これによって咀嚼力が低下した為に性的感覚が減衰し、出生率が低下して人口減少を引き起こしているが、後進国で発生している飢餓による出生後死亡率を差し引いた出生率は先進国より高い水準にある。

この意味に措いてその国家の未来に対する希望とは先進国が良くて、後進国が希望が無いとは言い切れず、むしろ社会が高齢者で満たされていない、若年世代で満たされている後進国に利が有るとも言えるのである。

「食」が持つ全ての歴史上の概念を理解することは難しいかも知れない。
それほど多くの事を経て「食」の概念が作られているが、基本的には「余り多くを考えるな、先が有ったらそこへ躊躇なく進め」と言うことなのかも知れない。

「食」は、それを消費する者も、作る者も自分の命の為にやっている事である。
だからどちらにしても最後は限度を持たない。

本来金を払えば良い、国家が規制すれば何とかなると言うような、贖い方の出来るものでは無いのかも知れない・・・。

[本文は2014年7月27日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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