「国 葬」

「日本と中国2千年の歴史に比べれば、両国間の不幸な時期など、ほんの瞬〈まばたき〉に過ぎない」

これは日本を訪れた際、日本政府首脳に語った「鄧小平」自身の歴史観である。

「鄧小平」とソビエト連邦の「ゴルバチョフ」は共に共産主義、社会主義と対峙する自由主義、資本主義との関係に措いて、一方は封鎖、もう片方は解放と言う対照的な政策で望んだが、2022年の今日に鑑みるなら、解放をセーブする為に戦車まで繰り出して鎮圧した「鄧小平」の中国、社会主義からの解放を成し遂げた「ゴルバチョフ」のロシアは、どちらも国家として維持されて来た経緯から、その選択は双方とも誤りではなかったと言える。

ただ、少し寂しい事では在るが、こうして20世紀の偉大な政治家が切り開いた道を、2022年の現在、両国の為政者である、「習近平」「ウラジミール・プーチン」が逆行させるかの如く、在り様になっている事だ。

「習近平」はまるで「文化大革命」のような思想統制を始めているし、ロシアのプーチン大統領は、やはりソビエト時代の栄光を夢見ているようにしか見えない。

そしてロシアでは2022年8月30日、「ミハイル・ゴルバチョフ」が亡くなっているが、葬儀は「国葬」になっていない。

20世紀、ソビエトと言う現在のロシアと東欧を併合した規模の、領土国家国民を困窮から救った偉大な政治家で在るにも関わらず、現政権の「プーチン大統領」は、またぞろ大帝国化を目指す意味から、こうした偉大な政治家の業績を蔑ろにした形と言える。

また1997年2月19日に亡くなった「鄧小平」は、生前自身が死んだ後、国葬にする事を禁じていたばかりか、盛大な催しもするなと遺言していた。

「自身の為に中国人民、同志諸君の営みを止める事は許さない」とした彼は徹底していた。

遺体を献体にし、使えるものは全て使えとまで言っていたのだが、流石にこれは実行されず、角膜のみ摘出して遺言が実行され、荼毘の後遺骨は海に散骨された。

急激な解放改革は国家崩壊にしかならない。

隣国ソビエトの崩壊を見ていた鄧小平は、1万人殺しても10億の民が助かれば、それが政治だと言った。

そして戦車で民衆を弾圧したが、中国の現在の繁栄は間違いなく「鄧小平」の功績と言える。

しかしそんな偉大な政治家は、いや偉大だからこそかも知れないが、自身の葬儀を国葬にする事を嫌い、為に民衆は鄧小平が亡くなった翌日も、其の次の日も平日と同じ1日を送っていた。

2022年9月8日、イギリスのエリザベス女王も亡くなられた。

イギリスのみならず、世界の女王とも言える規範を持った君主だったが、同年9月19日に行われた葬儀では、混雑する中、並んで弔意を示す国民に対する配慮は、流石としか言いようがなかった。

所変わって日本、ここでも2022年9月27日、同年7月8日に暗殺された安倍晋三元総理の国葬が予定されているが、世界を変えたゴルバチョフですら国葬になっていない現実、鄧小平に至っては「俺の為にそんな無駄なことはするな」と言って拒否された国葬、何も語らずとも世界から多くの人が慕って参列した大英帝国エリザベス女王の葬儀に比して、安倍元総理の国葬が、何故か後ろめたい気がしてしまう。

皇室に対し頭ごなしに女系天皇は認めないと、上から目線の発言をし、政治資金規正法違反問題では自殺者まで出しながら言葉で逃げ、アベノミクスで財政ファイナンスの泥沼の扉を開け、東京高裁検事の定年に干渉するなど三権分立に干渉し、亡くなって以降は統一教会問題の温床が疑われ、オリンピックにかかわる贈収賄にも影がちら付いている。

前述の20世紀を代表する政治家達、エリザベス女王の葬儀の在り様に鑑みるなら、安倍総理は本当に国葬に資するものだったかの評価は分かれるだろう。

事実日本国内では安倍総理の国葬に対し、一部世論調査は国民の70%が反対である調査結果を報告しているし、反対派のデモは連日大盛況、ついには暗殺犯の英雄視、憤慨して焼身自殺未遂事件まで発生した。

日本国憲法、及び国内法では「国葬」に関する詳細規定は無い為、この裁量は行政府の最上位「内閣」に決定権が存在するものと見做される。

それゆえ時の内閣が「国葬」に相当すると言えば、全ての要件が満たされる。

岸田内閣が「国葬」に相当すると認識すれば、国民との感覚的乖離が存在しても問題は無いのだが、要貞は「国葬」の価値と権威に対してである。

例えば今から30年後、もし私が生きていて安倍元総理の記事を書くとしたら、事前の好悪感情が全くなかったとしても、安倍元総理が抱えていた疑惑、それに国民の反対を押し切っての、異例な国葬が敢行された事は書かざるを得ない。

だが、これがもし歴代総理のように「国葬」に付されていなかった場合、暗殺の憂き目に遭遇した、悲運の総理と言う印象を強くを持つだろう。

つまり国葬に拠って、後世安部元総理の評価、印象が下がってしまう可能性が在る、其の事を現内閣と内閣総理大臣は理解しているだろうか。

愚か者は、其の小さな正義に拠って、大きな正義を貶めるものであり、今、マスコミや野党は国葬の予算などで大騒ぎしているが、本当に慕った者が世を去った時、その葬儀にかかる費用などはどうでも良い。

問題の本質はその葬儀に見合った故人だったか否かと言う事であり、もっと言えばその国葬に拠って、将来亡くなった故人及び遺族が利するか、不利益を被るかと言う事ではないだろうか。

この場合、国葬に拠って将来安倍元総理の評価が下るとしたら、この国葬を敢行した者はとんでもない不忠者、故人を貶める者だと言う事である。

世界に対し何の影響力もない国の元首が、自身の評価を上げる為の弔問外交を期待していたとしたら、恥ずかしい限りの行ないとも言える。

ただ、前述したとおり、国葬に関する詳細規定に付いては内閣に権限があり、内閣総理大臣が「国葬」にすると言えば、民衆にはこれに抗う術はない。

故人を悼みたい者は弔意を示し、そうでない者は特に変わらぬ日常を送る、日本国民の採れる方策はそれしかない。

が、1つ言える事は、今回9月27日の「国葬」は日本の内政面に取っても、対外的な面でも日本の品格を失墜させ、世界的には幅を持ちながらも漠然と存在している「国葬」の権威や尊厳と言うものが貶められた、後世、そう評価される恐れのある「式典」となるのではないか、そんな気がする。

 

 

 

 

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。