「敗 戦」

五摂関家は鎌倉期に成立したものだが、「九条」「二条」「一条」「鷹司」「近衛」の藤原氏の嫡流で公家の頂点に立った家柄を示し、この流れの中に「近衛文麿」(このえふみまろ)は存在した。

彼は元総理として昭和20年(1945)年2月14日、天皇に意見書を奏上する。

「モハヤ敗戦ハ必至ト心得候、シカシ乍米英ノ世論ハイマダ国體ノ変革を要求シテオラズ、万一敗戦ト言う事態ニ至ッテモ国體ノ護持ニ必配ノ憂イ無キモノト候ラエバ、モットモ憂ウベキハ共産主義ノ蜂起ニテ、(中略)軍内一部ノ革新運動、国民ノ疲弊、米英敵意ノ反動ニヨル左翼分子ノ暗躍ヲ鑑ミルニ、之ヲ阻止セシムルニハ今ヲオイテ米英ニ對シ降伏ノ機会ト為スニ他はアラズト心得候、言上奉リ候」

実際の書簡は文才もある近衛文麿の事だからもう少し滑らかだが、近衛は天皇に戦争に負けても天皇家は大丈夫だから、それよりむしろ日本で発生する共産主義の蔓延を阻止するために、アメリカとイギリスに降伏しませんか、と言っているのである。

随分のんびりとしたものだが、或いは敗戦の理由が天皇に向かう事を回避する為に気を遣ったものかも知れない。

だが、この同じ年の同月、スターリン、ルーズベルト、チャーチルはソビエト連邦の「ヤルタ」で会談し、国際連合の創設と、当時は日本領がだった南樺太と千島列島のソビエト領有権を認め、他の権益と共にドイツが降伏したら、3ヵ月後にソビエトが日本に対して連合国側として参戦する事が決められたのである。

そして1945年5月、ドイツは連合国によって包囲され、8月には無条件降伏したが、ここに至る経緯の中でソビエトは第二次世界大戦の勝因がソビエトに有る事を誇示しようと画策、対日本参実行をギリギリまで引き伸ばした事から、日本政府は妙な勘違いをする。

即ちソビエトと言う社会主義の台頭は欧米との間に対立関係を生じせしめていたが、日本政府はこの対立を利用してソビエトを通じて「講和」を考えていた。

しかし1945年1月にはルソン島がアメリカ軍によって奪回され、40万と言う日本軍兵士がルソンの山中を彷徨い、飢えと傷病でその大多数が死亡し、同年2月には硫黄島が陥落、4月には沖縄も陥落し、沖縄の地上軍9万人、沖縄県民15万人が戦死した現実から、もはや1945年1月の段階で連合国の勝利は織り込み済みだったと言う事である。

後は戦勝国の利益分配に付いて水面下の争いが発生していたと言う事で、自国の価値を高めようとして日本参戦を引き伸ばすソビエトに対し、もはや連合国側の勝利が決定的となった1945年6月、今度はアメリカがソビエトの影響力を排除して行く方向へと政策を転換する。

第二次世界大戦の勝利はアメリカによってもたらされた事を示す為に、1945年8月6日、たった2個しかできていなかった原爆の1つを広島に落とし、このたった1この爆弾で20万人の広島市民が殺されてしまったのである。

3日後の1945年8月9日、ソビエトはヤルタ会談の協定を実行し、併せて7月25日ベルリン郊外のポツダムで開かれたイギリス、アメリカ、中国の3カ国協定、「ポツダム宣言」にも参加し、これによって中国駐留日本軍は総崩れとなり、このソビエト参戦の影響力を排除しようとしたアメリカは、同日に長崎に原爆を投下、10万人の日本の一般市民が殺傷された。

だがここにいたっても日本政府と軍は、国體の護持といえば聞こえは良いが、どう有っても償い切れない責任の前に彷徨い、長崎に原爆が落とされてから5日も経った8月14日にポツダム宣言受諾を決定するのであり、実際に東京上空をB29が飛ばなくなったのは8月15日の夜からである。

太平洋戦争が日本国民に押し付けた犠牲は計り知れない。
終戦当時徴兵されていた者は720万人、満州事変までの戦死者は17万2000人、それ以降昭和20年(1945年)までの戦死者が233万人、派兵されていた戦地で行方不明となった兵隊6万3000人、何とか日本に帰って来れた傷病兵30万9000人、実に日本の5世帯に1人が戦死、傷病した。

更に日本の一般国民が受けた空襲や爆撃での死者80万2000人、この内30万人の人が8月6日と8月9日のたった2日で殺されているのであり、この事を私は未だに自身の内でどう納得して良いかが解らない。

戦争で失った国富は643億円、実に昭和10年の国富の34・5%に相当し、現在で換算するなら872兆9640億円が物だけで失われた事になり、空襲などで失われた家屋298万戸、被災者総数900万人以上である。

食べるものも着るものも無く、毎夜のように低いB29の音が聞こえ、あちこちで火柱が上がる。
男は父も息子も戦争に取られ、女子供までが工場労働で徴集される。
年老いたもの、病の者は疎開先で自身が生きている事を、申し訳ないとまで思うに至っていた。

[本文は2014年8月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。