「絶望の果てに」

日本が戦争を止める機会は幾度も有った。
しかしそこで止められなかったのもまた日本だからである。
徳川幕府の政策によって、250年と言う期間封建制度に支配され、その仕組みが国民生活の細部にまで及んでいた。

基本的に明治政府は幕府を排除したものの、細部にまで及んだ国民が持つ封建制度期の仕組みはそのまま利用し、更に外圧から進められた民主主義は逆流を起こし、例えば自治体の概念はその地域の自治を指しているのではなく、上からの支持を伝播し実行する組織の意味合いが強い。

この事から昭和初期、多くの知識人たちによって支持されていたマルクス主義は、政府の激しい弾圧に逆らってまで国民をひきつける力を持たず、日々の生活と安全の為に妥協が始まり、この頃共産主義者の思想転換が始まっていく。

日本の古い支配体制が持つ権力が余りにも強大で、一般国民の生活感覚と現状革命の思想や実現の乖離幅が大きく、現状改革はどう考えても無理だと言う絶望感が蔓延していくのである。

また徐々に勢いを増していく軍国主義、天皇絶対主義を利用した日本の全体主義は余りにも非合理的、非文化性の要素が強く、ここにナチスのように一部でも知識人を取り込める整合性が無かった。
それゆえ多くの知識人は政治そのものから逃避し、自分の生活だけを守る事を考え、その思想は温存しながらも言動は封印された。

ここに日本は軍国主義以外の一切の思想を失ったのである。

更にこうして知識人たちが影に隠れてしまった現状はネオ知識人、以前より1ランク下の知識人、文化人達を生じせしめ、町や村の有力者や中小企業主、商店主、富農、在郷軍人、小学校教諭、地方官吏などが1ランク下の知識人となって、政府主導型思想を一般に普及させていく。

その背景は景気の悪さと貧しさであり、彼等は実態の経済活動では賄っていけない売り上げや生活を、政府や軍から来る便宜や権益で補填して行ったのであり、貧しい生活の中から抜け出すにはこれ以外に方法が無く、こうした状態こそ成功者、或いは人が目指す道となって行った。

昭和7年施行の農村再生運動、9年の選挙粛清運動、軍部指導の防空演習や防護団、自警団結成などの下部組織には「燐保制度」(りんぽせいど)が動いていた。

冒頭にも述べたように明治政府は町、村の下の部落や町会の自治を認めてはいなかった。

それをこうした時期に復活させたり法律で認めたり、権益を与えていったのは、政府が町や村よりもっと小さい単位を利用して国民全体の組織化をもくろんだ為で有り、自主活動として政府や軍の思想伝播と言う形が採られるには、本当の知識人よりも1ランク愚かな知識人を使う事が考えられたのである。

そしてこうして組織化された国民はその非条理、理不尽を小さな組織からはじまって口にする事を封印され、ひたすら戦争に突進して行った。

その意味で回避されるべき戦争を増長して行った最大の原因は、国民や語るべき知識人達の絶望感と、愚かな二流の成り上がり知識人の扇動、貧困や絶望から来る自己保全主義が為す全体主義の許容だった。

皆して自分の生活だけは何とか守ろうと考えた挙句が、全国民の10%の死者、傷病者を生み、全国民の10%の家を失わせ、日本から34・5%の財産を消失させ、自由と希望を奪って敗戦と言う結果しかもたらす事が出来なかったのである。

今この国を見ていて思う事は、こうして第二次世界大戦に突入して行った時代背景と我々が酷似している事である。
みんなが政治に絶望し、自身の生活を守る事だけを考え権力におもねいて、誰も何も行動しようとはしない。

第二次世界大戦期に発生した町内会や部落、燐保制度は現在も地方を動かす大きな力となって残存し、経済が破綻した地方では相変わらず二流、三流の知識人や文化人が跋扈して民衆を牽引し、それが唯一成功者となる現状はこの国の行く末に限り無い憂いをもたらす。

当時の軍や政府、天皇に責任を考えるのも間違ってはいないかもしれない。
だがその国家の最終的な責任は国民、我々一人一人に在って、言葉を発しない事もまた大きな責任を負うものである事を、政治に対する絶望が招くものは破滅で有る事を、今一度心に刻んで頂きたいと希望するものである。

太平洋戦争終結から、はや75年の歳月を得ながら、そこから何も学ぼうとせず、同じ事を繰り返すかの如くのこの国を鑑みるに、国の未来を信じて散って行った御霊達に対し、唯ひたすら申し訳なく思うのである。

[本文は2014年8月14日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。