「人と言う字の形」

屍と言う文字の起源は「屍」から「死」を外した「しかばねの部」に有り、文字としては初期の象形文字から「甲骨文字」、「金文書体」まで「人」と言う字と粗同じである。

つまり屍と人は同じ表記をされていたのであり、この事から少なくとも金文書体までは人間をその意味で捉えていたのではなく、形で捉えていた事が解るが、一方「刀」と言う字は象形では異なるものの、甲骨文字、金文書体では人や屍と近くなり、「刀」は一部でその起源を四足の獣を切る形に求めた解釈も為されたが、何故か象形でも甲骨文字でも動物は縦に起こした形で現された。

この事から現代の漢字解釈は刀と四足動物の関連性を用いていないが、甲骨文字から以降「人」と「屍」「刀」が似た表記をされた事には理由が有るかも知れない。

つまり「刀」「人」「屍」は同じものか近いものと概念されていた時期が存在し、金文書体を下る「篆書体」(てんしょたい)の時代ではこれが著しく、その背景は国家統一に向けた戦乱の発生が考えられる。

元々「人」の象形は少し腰を屈めて前に両腕を出した形であり、屍の象形はこれよりあお向けになった状態として記されている。

つまり「人」は立っている形と、尻もちをついている形の差が有り、この意味では立っている人間は「人」、あお向けに倒れているか、その状態で寝ている人を「屍」と概念していて、ここで言う屍とは生死が問われていない可能性が高い。

動けない者、使い物にならなくなった者は「屍」と言う概念が為された可能性が有り、こうした背景から屍が動物の死骸をも概念するのは後の時代の拡大と考え易いが、その現実は始めから動けない者、自身の体の責任を取れなくなった者すべて、動物も含めて「屍」と概念していたと考えるのが正しいのかも知れない。

そして現代、人と言う字は一つのものを支え合って等とぬるい解釈をする者もいるが、漢字の流れを見るなら、時代が下るごとに「屍」の字の角度は倒れて行き、「人」の字は甲骨文字では殆どひれ伏す寸前、金文書体では一時この角度が立った状態に近くなるものの、篆書体では両手を地面についてひれ伏した状態になる。

これは屍の概念が当初持っていた「動けない者」と言う概念から更に「死」の状態に近付いて行った事を意味し、片や人は甲骨文字の時代ではもしかしたら穀物の種などを蒔いている姿だったかも知れないが、それが金文書体の時代、この書体を使った地域では一時的に民衆の自由や暮らし向きが安定していた事から、人は腰を屈める角度を浅くするものの、次の篆書体時代には為政者や権力者の前に両手を付いている状態が「人」の姿になったのである。

つまり「刀」と言う字に最も近付くのであり、屍がどんどん「死」の概念を深くし、地面に手を付いた状態が人を現していく現実は、為政者や権力者によって刑罰が横行し屍が増え、人々は地面に手を付かねば次の瞬間自身が屍になる。

その屍を作るものが「刀」であり、これらを似た形で現した当代の人々の喘ぎと苦しみが、その文字の中から聞こえてくる気がする。

また「刀」の文字は何かを切る概念と共に「おぞましいもの」、「危険」をも概念しており、例えば「刀俎」、刀とまな板が揃った状態は料理の準備が全て出来上がっている事を意味するが、この基本的な意味は「危険」である。

現代でも儒教や道教の精神が息づく日本では「揃ったものは禍々しい」と言う思想が残っているが、この思想は儒教や道教から始まったものではなく、発祥は古代文明時代から存在する。
しかもその原初は懲罰である。

刀と首を斬られる儀式壇、天恵の捧げものなどが揃った場所が有ると言う事は、誰かがそこで殺されると言う事であり、それが自分ではないと言う保障は無く、むしろそうした場所に通される事実は自分が殺されると考えるべきで、この場合の対処は「易経・三十六計」「逃げろ」である。

揃ったもの、揃った場所を避けよと言う思想は、こうした権力者による気まぐれで発生する懲罰と、家臣やその他権力に群がる者たちによって、いつ自分があらぬ疑いをかけられるとも知れない、その不安定さと天の気まぐれを同一線上に考えた結果、つまり古代の人たちにとって権力者も天の定めも同じ実害を被るなら同じと考えた、そこに起源が有り、これらは天と権力者のどちらかに濃度を変えながら現代にまで続いている。

尚且つ「刀」に措ける「おぞましさ」とは地獄の様であり、篆書体では「人」と言う文字が地面に手を付けている状態になっているが、この時代の刀の文字はその人の姿で首が後ろの方向に反り返っている形になっていて、人とその人を斬る刀の形が近い理由は不明ながら、その現実の前に為される者とそれを為す物が近い表現をされているリアリティには深い感慨がある。

ちなみに「召」と言う字はこうしたおぞましきものの入る場所、或いはおぞましきものの台、権力者である「刀」の入口、刀の台、しかもその刀とは地獄で有ったり、人が立つ事すら許されぬ状態と同じ形を持ち、厳密には地獄の概念はその時代によって異なる事から、「おぞましい」と言うそのおぞましさは現代では理解できない。

そして「召」は為政者の「食」であり、自身の身内や一番愛しているものを殺して失い、信じた家臣からは裏切られ、人々からあらゆる誹謗中傷を受け、尚且つ憎まれ恨まれて、いつ八つ裂きにされるとも知れない中で得られるものが権力である。

「召」と言う文字の辛さ、「人」の姿の苦しさ、「屍」の哀れさ、「刀」のおぞましさは、もしかしたら同じものだったかも知れない・・・・。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。