「博物館の軍刀」後編

そして昭和20年7月、良くぞここまでと言うのが正直なところだろう、他の戦地では日本兵の万歳突撃が伝えられる中、安達の18軍はしぶとく持久戦を耐え抜いていて、ここに来てジェネラル・アダチとは一体どう言う人物なのか・・・と言う半ば尊敬の眼差しがオーストラリア軍の中から芽生え始めていたが、そうは言っても戦場である。
8月8日、ついに連合軍は日本軍第18軍司令部付近にまで侵入してきた。
もはや、これまでである、安達は9月はじめには全滅するものと判断し、各部隊指揮官に最後の突撃に対する覚悟を通達していた。

昭和20年8月15日、終戦。
これを一番喜んだのは誰であろう、それは安達では無かっただろうか、もはや第18軍の運命は玉砕しかなかった、まだ少年としか言いようがない幼顔の兵士達を見るにつけ、彼らに「死んでくれ」としか言えない自身のこの有り様、まるでその身を引き裂かれる思いだった。
これから先はどうなるかは分からない、だがしかし、生きてさえ、生きてさえいれば必ずどうにかなる、生きてさえいてくれれば・・・・。

安達二十三中将は昭和20年9月13日、ウェワクのオーストラリア第6師団司令部に出頭、そこで軍刀を差し出し、降伏文書に署名した。
それから第18軍はムシュ島に収容され、昭和21年1月にはその大部分が日本に復員したが、安達を始め140人ほどの部下達は戦犯容疑でラバウルに送られ、そこの収容所で一般囚人と同じ扱いで労働を課せられた。

脱腸の持病は悪化の一途を辿り、手術を進言されたが安達はこれを拒否、激しい痛みに耐えながら水桶を担ぎ、30度を超える灼熱の太陽にあぶられながら畑の整備などの労役に耐えていた。
そして安達は結局戦争犯罪人裁判で、終身刑を言い渡されるが、この容疑は完全に濡れ衣も良いところだった。
シンガポールで降伏した後、自発的に日本軍に参加した「インド義勇軍」を日本軍の強制と見做し、捕虜虐待とされたからだが、このときに安達に判決を言い渡した裁判官が、安達に同情の弁を述べているが、安達はこれに対して「同情はけっこうだ」とだけ答えている。

それから後、安達は同じように収容されている部下達を慰め、彼らをまとめながら、ただひたすら戦争犯罪人裁判が終了するのを待っていたが、自身の減刑の嘆願を申し出るでもなくその日を待ち続け、9月8日、ラバウル法廷が閉鎖される宣言を通告され、同時に戦犯容疑で拘留されていた最後の部下8人の釈放が決まると、弁護団に丁寧に礼を言い、身の回りを整理したあと、9月10日午前2時ごろだと言われているが、自決した。

果物ナイフで腹を割き、自分で自分の首を押さえ圧迫して死んで行った。

オーストラリア・キャンベラ、ここにオーストラリアの戦争博物館があり、太平洋戦争時の日本軍の遺品も展示されていたが、その中にジェネラル・ハタゾウ・アダチ、と書かれたプレートが掲げられた日本軍指揮官の軍刀が一振り、展示されている。
安達二十三中将その人のものだが、戦後ここを訪れた多くのオーストラリア軍関係者の中には、このジェネラル・ハタゾウの軍刀の前に来ると姿勢を正し、敬礼する者がいたと言われている。

最も偉大な指揮官とはどう言うものだろうか、そこにあるのは「責任」と言うものでは無いか、すなわち部下が人間であることを思い、彼らを何とかして生かして帰してやりたい、そしてまた作戦も遂行しなければならない、こうした苦悩の中、自身を顧みることなく、その狭間で最大限に力を尽くし、そしてまた自身の命令により命を落として行った者たちのことを最後まで忘れず、これに対して自らの命をもってあがなった安達二十三。

泣いて、泣いて、泣いて、もとより全てが終わったら死ぬ覚悟でありながらも苦闘し、その中にあって若い者達が1人でも多く生き残る術を見出そうと、最後まで奮闘した安達二十三、私はこの男の中にあらゆる国家、人種を超えて、いや人間として、指揮官と言う枠を超えた「人としての責任の有り様」を見るのである。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

2件のコメント

  1. 今時の代議士が直ぐに「秘書があ~~」って全く以て覚悟が足りないと言うか人間性に欠けるというか、責任と言うことが分かっていない、浮世の栄誉を求めているだけのようであり、安達中将の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
    安達中将は日本人の根源的なものを支えている方で、全く誇りです。

    東京極東軍事裁判もアメリカ側から見た浅薄な史観で以て、構造や個人の覚悟を見る努力もしない、進歩的文化人擬きは綺麗にお化粧をしたエテ公に思えます。
    戦後の日本を支えたのは、安達中将の様な先人から薫陶を受けた人々が沢山居たからだと思います。
    沖縄特攻の伊藤整一中将も中途に旗艦から若い将校を数十名駆逐艦に移乗させました。平等とか機会の均等とかは大事な物ですが、切羽詰まった時にはトリアージで、将来を少しでも救う準備をした内のお一人と思います。家族、実際には奥様に当てた遺言は、さすがに帝国海軍中将という感じです、本来は親任官ですが、機会は無くとも、即日大将は相応しいものだったと思います。

    1. ハシビロコウ様、有り難うございます。

      私は実は第二次世界大戦中の日本軍、アメリカ軍、ドイツ軍将校の話も多く書いていて、この中で気づいた事は人としての原則を貫き通せるだけの人間的度量と、命を敬う精神を最後まで失わなかった人が沢山存在していた事でした。日露戦争では死んだロシア兵の為に涙を流し、バルチック艦隊司令官は日本で療養して帰国させている。しかし第二次世界大戦では自国民まで相互監視させて泥沼の戦線に陥って行った。もはや人間としての尊厳も失いかけている中でも、最後まで日本と言う精神を失わなかった者がいた事が嬉しかった。
      振り返って今日の日本を顧みるに、太平洋線中よりも激しく日本人が日本を失っている。多くの若者たちが日本の為に死んで行った中で、今日の日本の姿が彼らの望んだ日本だったのか、これが多くの血を流して得るべき世の中だったのか、その価値が有るのかと言う事を思います。
      太平洋戦争で死んで行った者たちに対して何か申し訳ない気がして仕方ない・・・。
      これから以後も時々、第二次世界大戦中の話を掲載していきたいと思います。

      コメント、有り難うございました。

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