「私は旅をしている」

人は厳密な現在(いま)を生きられない。

必ず少し先の未来を思いながら現在が量られ、ではその未来は何から来ているかと言えば現在の状況から来ていて、未来の予想とは過去の経験や知識から来ている。

つまり我々は今を生きながら常に過去や未来を行き来し、未来とは状況に対する推測と自身の希望で成り立っているものであり、基本的には「虚」に在って、我々は「虚」を根拠に今を生きている事になるゆえ、先の状況や未来は常に思う通りにはならない。

例え一時的に思う通りになったとしても、それは長くは続かない。

コシヒカリ一等米の基準価格が60kgあたり昨年より2000円下落し、水稲栽培農家がパニック状態だが、これは昨年から予想されていた事であり、投入資材を控えた栽培をしていた私は、来年更に2000円下がって来ることに対応するべく考えながら今年の農作業をしていた。

だが不思議なのは、こうした価格下落で有れば当然店頭販売価格も下落しても良さそうだが、その下落幅が少なく、品質も決して良くないままである事の方が理解できない。

コシヒカリ一等米60kgの玄米が10000円だから、単純計算では6kgの玄米が1000円であり、ここから精米して失われる「ぬか」の分を引いても、5kg精米済みコシヒカリ一等米の原価は1000円となり、10kgでは2000円のはずだが、それにしては店頭販売価格が3500円くらいになっていて、製造原価の75%が上乗せになっている現実をどう捉えたら良いのか・・・。

またそうして大して安くもない米で、農家自慢のコシヒカリと表示しながら、その半分は「白留米」(はくりゅうまい)と言って、本来は数粒混入していても2等米以下に等級が下がる「くず米」が混ぜられているものが多い現実をどう考えて良いのかと思う。

正規一等米の米価格が10000円なら、くず米の価格は4000円前後であり、この場合は5kg1000円の米に5kg400円の米が混入されている事になり、その原価は1400円にしかならず、これを倍の価格で売っても2800円のはずだが、実に消費者は製造原価の3倍の価格の米を買っている事になる。

これでは農家が苦労した部分を販売組織が搾取しているだけのようなものであり、更に日本の食料自給率が40%を切っている現実の中でも、米は自給率を超えて生産されている訳だから、米農家を守る事が日本の食料自給率を高めるとは言い難い現実がある。

例えば酪農家だが、昨年度だけでもTPP交渉の予測から大幅な離農が進み、脱脂粉乳や肉の輸入額は大幅に増大している。
日本の食料自給率を高めるならこうした部分にテコ入れをしないと改善されず、小麦やトウモロコシ、ネギやキャベツなどの野菜なども増産しなければ食料自給率など決して改善されない。

日本人だから米を食べなければならないと言う決まりが有る訳ではなく、たまたま日本は島国だったから歴史上米を統制して経済を成立させる事が出来たが、それも今日のような国際社会では、むしろ伝統や歴史に拘っている方が時代に逆行している感が有り、食料の自給率を考える時、米だけを考えるのは本題が見えていない気がする。

4000年前の日本人の食生活は木の実や貝類の摂取量も多かった。
米が経済的に統制されていた封建時代、粟やヒエなども食されていた。
日本人だからいつの時代も誰もが米を食べられたと言う訳ではなく、その意味では人々は常に合理的に食べてきた訳であり、現在小麦の価格は米の国際価格の7分の1、トウモロコシに至っては更に安く、これを食べすに伝統を守れと言うのもおかしな話である。

日本の食料自給率を守れ、このままでは農家が壊滅すると騒ぎながら、その実店頭で米を買うとき誰がわざわざ高い米を買うだろうか。
マクロ経済とミクロ経済はその大半が相反するものであり、ブランドで付加価値を付けて販売するするにしても、その高い米を買える富裕層は僅かであり、しかもその消費量は少ない。

片方で一番米を消費する年代層である、子供を抱えた夫婦などが求める米はとにかく安い事が最優先である。
この事を忘れて全ての生産者や販売組織がブランド米を目指すことは初めから「レッドオーシャン」(過剰競争)だった。

魚沼産コシヒカリが暴落するのは当然であり、これに追随した者は同じ憂き目にあうことは必至にも拘らず、未だに地域特産ブランド米を目指す地域は多い。
TPP以前の問題だと思う。

一番育ち盛りの子供たちに、腹一杯美味しい米を食べさせたいと思う農家も沢山日本には存在する。
彼らが作った米をクズ米と混ぜて売って利益を出すような仕組みから変わらないと、農家の努力が直接消費者には届かない。

刈り取った籾を共同乾燥する施設へ運んでいたら、65歳くらいだろうか、年配の男性がやはり乾燥するために軽四トラックで籾を運んでいて、それが乾燥機にあけられるのを見ていたら、中に幾粒もの泥が付いた籾が混じっていた。

きっと水が引かずにぬかるんだままの田んぼでの稲刈りだったのだろう。
おそらくその大半が鎌で手刈りされたものだったに違いない。
「とうちゃん、良い米やね・・・」
そう言う私に「ああ、大変やった」と頭をかきながら笑う彼を見ていたら、自分まで嬉しくなった。

水の引かない田んぼは綺麗な米が穫れる。
ただ儲かれば良い、経営的に成立するだけを目指す者はこうした田に苗を植えない。
だが、農業の本質とは、おそらくこうして水の引かない田にも苗を植えるところに存在してるように思えてならない・・・。

そして人間は生きていることを一義とし、その為なら安いものを選ぶことも決して悪い事ではない。
今日も明日も同じ事を望む者は動いている者から支配を受ける。
時代と共に変化していく事は良い事で、そこに留まっていようとする、守ろうとする者は必ずそれを失う。

政治と民衆の暮らしが一致した事など歴史上ただの一度もなく、人の思いは成し遂げられる事もない。
皆その時代を状況に応じて必至に生きて来たのであり、それを止めて考える事は結局現在も未来も失い、過去も否定するだけである。

私は来年コシヒカリ一等米60kgが8000円になっても、利益を出しながら美味しい米を必ず作る。
くだんの軽四の男性にもう一度会えるかも知れない、その事のみにても来年、田に苗を植える価値は有り余る。

1「本文は2014年10月5日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。