「平和憲法」

日本国憲法の規定を詳しく見てみると、刑事手続きの基本原理である33条から39条に見る限り、比較的詳細に定められているが、それ以外の規定は随分と抽象的かつ、憲法制定時の概念とは異なる解釈が増加している。

刑事手続きに関して比較的詳細に条文が整理された背景には、太平洋戦後のアメリカの統治システム徹底ゆえの必要が存在した事が伺えるが、例えば6章81条の最高裁判所の違憲審査権などは、極めてアメリカらしい「法支配主義」となっているが、罰則手続きが規定されていない事から、事実上違憲判断は為されても、それを改正する義務は曖昧になり、結果として日本国最高憲法で有るにも拘らず違憲状態の容認が存在する。

国家の憲法などの場合は大体が大まかな指針しか記載されていない事が多く、それゆえに「附属法」が整備されていなければならないが、この附属法の規定は不文律、成文法の種を問わない。
つまりは慣習であっても良く、最終的に成文化されていなくても国民皆が認識し、守られる事でも成立する。

しかし一方で前出のように国家の法的最高機関が違憲状態の判断をしても、「速やかに違憲状態を解消しなければならない」だけでは「村の掟」よりも劣性となる現実が有り、10章98条1項の規定に至っては、明確にアメリカ合衆国憲法の条文を持って来ただけである。

すなわちアメリカは合衆国である為に、州法と連邦法の二重法制になる事から、法権威の最終的上下関係を規定しなければならなかった背景が有り、ここで連邦法が州法より優位に有る事を規定したもので、日本のように各都道府県が独立していない非連邦国家には元々無意味なものだった。

98条の2項は確かに国際法との関連を示したものだが、98条1項は外の法、外国との条約や批准された国際法との関係性をを規定したものではない。
既に日本国憲法が日本の最高法規である事は98条1項の以前に出現していて、1項は無意味になっている。

また日本国憲法の条文は、例えるなら「悪い事をしてはいけません」と書かれているだけであり、では何が悪い事なのかと言う事を定めているのが「附属法」であり、実はこうした附属法は1993年以降相次ぎ大幅な見直しが為されていて、国家行政組織法、選挙法、内閣法などが既に改正されているが、これ以外にも多くの附属法が改正されたり付加されたりして、事実上日本国憲法の改革は相当進んでいるのである。

更に国民主権だが、この思想はフランス革命前後から発生してきた考え方で、ここで出てくる国民とは社会に実在している個人の集積や集合体ではなく、独立した意思や思想、人格を定義された抽象性概念である事から、現実社会で主権的権利を行使できる存在とはなっていなかった。

それゆえ国民の負託を受けた代表者、代理人が統治権の正統な行使人となる絶対性を有していたが、現代社会はこの概念も変遷させ、国民主権の国民を抽象的概念から、実在する個人の集積や集合と定義するようになり、これによって本来まとまっていた国民の主権、権利が分散し、尚、細かくなった主権が個人の事情によってぶつかる状態となっている。

主権の分散はあらゆる側面に措いて機動力と、明確な決断を避ける方向へと向かい、これによって影響された国民の代表者や代理人の権限も弱体化してくるのであり、主権分散は国民の負託を得て信任されている代理人以外の、これに反する主張をする者も認める事となる為、現代社会の国民と言う定義は、事実上割れたガラスのそれぞれの破片のような形になり、一体何が正当性を持つのかが不明瞭になっている。

更に日本国憲法9条に象徴される平和主義、非戦争国家主義に関して、これは98条2項の解釈にも関連するが、そもそも国家の憲法はその1国では成立しない。
これを承認し、互いの憲法を尊重し合う国家間の条約が無ければ成立しない。

「私は正しいので従え」と騒いでも、これが拒否されれば何の効力も無い事に同じであり、現行世界各国の憲法の成立は、互いにその憲法を尊重し合う事により、形而上の対等性を持った法の不文律不可侵条約に根拠が求められている。

従って、日本国憲法がいかに素晴らしいもので有ろうと、この憲法が他国憲法に対して優性である事を主張する、或いは世界的な目標法となるを主張する事は、他国の憲法、その法典との対等性に対する不均衡を主張する行為となり、事に日本国憲法9条の条文は美しいが、日本はこうした憲法に定められた国家とはなっていない。

戦争が完全に放棄された状態とは言い難く、集団的自衛権行使に関しては附属法で改変が加えられ、湾岸戦争、イラク戦争でもその都度どうにでもなってきた経緯があり、これから先もどうにでもなる憲法でもある。

条文が美しくとも、現実にそれが守られなければただの嘘つきであり、こうした国内事情は外の世界、世界に向けて発信された時点から「日本の恥」にしかならない。

憲法9条をノーベル平和賞に推薦する動きが有る様だが、現実の世界を、例えば日本も参戦した湾岸戦争やイラク戦争後、イラクは今どうなっているかを見るが良い、アフガニスタンの人々の生活を見るが良い。

言葉だけ美しくとも、現実が相反する憲法が為せる事はこのような惨事を招く事を、国民として国民の代表者が犯す憲法違反すらコントロールできなかった事を、その為政者も平和賞を唱える本人も、対外的には同じ「日本」としかならない事を認識した方が良いだろう・・・。

[本文は2014年10月24日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。