「自然法の逆戻り」

完全な理解が現在では失われたヘレニズム哲学(紀元前300年頃)の一つ「ストア哲学」は、この後発生した初期キリスト教の中に全人類同胞思想、世界市民主義の原初形思想を形成し、この思想がやがて中世ルネッサンスの世界市民思想の中期完成形を形成、やがてはフランス革命の市民思想に結実される流れを持つ。

イエス・キリストの哲学は既に遥か以前から存在していたもので、こうした流れの一つはローマ帝国にも継承されていたが、ローマ帝国のそれは奴隷や賤民層には適応されない自護解釈、狭義の解釈が用いれていた事から、キリストの目はもっぱらこうした、未来が決定している絶望を心に持つ低層民に対して光と希望を与えるものだった。

この点ではキリストの教義はストア哲学や万民法、自然法などの思想でストア哲学や万民法を拡大し、自然法を整理した意味を持つが、そもそもローマ帝国成立初期には征服民族の売買、奴隷の売買に関しての国家間協定が必要になり、万民法の概念はこれを起源としている。

つまり万民法の初期はローマ市民権との整合性を保つ措置として概念され、市民法との共和が図られ、万民法が世界的な法体系となった時、自然法、自然の摂理との整合性を付与されるに当たり、市民法と万民法は相反するもので在りながら、融合して行った。

簡単に言えば同じ事象を逆から見る形になったのであり、征服民の自由を奪っている事を、解釈上は征服民を他の残虐な侵略者から擁護しているとするような形である。

また自然法解釈の初源は「神」だったが、後に自然摂理なども解釈に加わり、こうした自然摂理と社会システムは必ずしも一致しない事からヘレニズム期には混沌化していた。

これらを整理したのがキリスト教と言えるが、この内合理的理論展開から神を使わずに自然を解釈した部分の思想も残って行き、その過剰発展した形式が近代の物質生存等価論、地球も一つの生命と考える「ガイア理論」になる。

つまりキリスト教初期の思想はそれまでに存在していた古代哲学を本当の意味で万民に解放した哲学と言え、この古代哲学の適応範囲拡大の妨げになるのは既存権威だった。

ストア哲学や万民法の適応範囲の限定とは権威そのものだった訳で有り、キリストがローマのあらゆる権威を否定して行った経緯には、賤民や奴隷達にまで平等の権利を与える為には既存の破壊が必要だったと言う事である。

それゆえその発生初期は様子見だったローマ帝国も、次第にキリスト教と対峙せざるを得ない状況になり、やがて激しいキリスト教迫害が始まる。

しかしこうした状況にも拘らず、キリスト教が4世紀にはローマ帝国の国教となる背景には、ローマ帝国の混乱期と人心不安や社会不安、それに伴い上層市民の動揺が発生したのに対し、下層市民達には「人間は生まれながらにして身分の差は無い」とするキリスト教の教義に拠る思想的安定と「未来の不可侵性」、「希望」が生まれたからで有り、これによって下層市民は力や信念を得る事になる。

それとこれは重要な側面だが、冒頭にも述べたように初期キリスト教はヘレニズム哲学影響を拡大したものと言う点である。

つまりローマ帝国も同じものを半分は持っていて、比較的システムとしてのなじみが有った事、世界的普遍性が半分は一致していた事からキリスト教、ローマ帝国相互が理解し易い状況が揃っていた為であり、もう一つの発展理由はキリスト教が国際言語としてギリシャ語を採用していた事が挙げられるだろう。

ただ、初期にその思想を説いたキリストは、当時の社会の有り様からヘレニズム哲学や初期ローマ帝国のシステムを肌で感じ、その中から自身の思想を発展させて行った無意識、無計画性を持つが、その後継である使徒達は必ずしも同じではない。

キリスト教初期には12人の使徒が存在し、この中でキリストを裏切ったのは「イスカリオテ・ユダ」だが、彼の裏切りは一過性のもので、或いは必要とされる運命的な裏切りで有った可能性も持つが、最後の晩餐の後、キリストの死後伝道の主役となったパウロの現実的な発言はある種それから後、先の未来を崩壊させる可能性を持っていたかも知れない。

イエス・キリストの死後パウロはこう言う事を言っている。
全ての者は上に立つ権威に従うべきである。何故なら神によらぬ権威はなくして・・・」

この言葉は不確定性原理とラプラス運命論が結果として同時である事と同じで、卵が先かニワトリが先かと言う議論に等しく、ここでは神によってしか成立しない権威で有るなら、既存する権威は神によって肯定されている事になり、またもし神がその権威を許さないなら既存権威は存在していない事になる。

この意味ではパウロはキリストが拡大しようとしたヘレニズム哲学を、逆に権威を肯定する事でそれまでのローマ帝国的哲学に戻してしまった事になり、キリストの無意識性、無計画性を「純」「真実」とするなら、パウロのそれはイエス・キリストの思想の全く反対の性質、反対の思想と言う事が出来る。

事実最終的にはキリスト教がローマ国教となり、この権威主義が現在も続いている事を鑑みるなら、キリストが今日のローマカトリックと言う在り様を望んだとは思えず、パウロは実務と現実に捉われ、キリスト教を妥協した経緯が有り、少なくとも4世紀にローマ国教となった諸因の根源は、キリストによって整理された自然法に、彼の死後、理論的解釈や整合性を持たせようとした弟子達が、結果として自然法を「神」の概念から自然摂理の概念に逆戻りさせた点にある。

しかし一方キリスト教がその初期イエスが最も嫌った権威主義に陥って行く背景には、「安定」と言う原理が働いている事も忘れてはならず、固定的な教会の組織や制度が出来始め、使徒が亡くなっていく中でこれら組織を束ねる事務長としての監督者、司祭と言う形式が発生して行く事から、ここにもやはり権威と言うものが必要になっていくが、これらは全て「守る」と言う思想が背景に有るからだ。

イエス・キリストは守っていたのではなく、壊していた。
既存の仕組みを壊して、古い考え方の基本的な部分の範囲を広げようとしていたに違いない。
今日キリスト教は世界で最大の信者を持つ宗教に発展したが、これはおそらく彼が望んだものとは違うだろう。

彼が求めたものは「個」の解放、「絶望」からの解放であり、「守り」ではなかったと私は解釈している。

創造した者とそれを受け継いで行く者は、同じ命題を初めから相反する関係に有り、創造は破壊、受け継いだ者はそれを維持する為に創造されたものをその創造の以前に戻してしまう作用を持ち、これは経済や政治の仕組みもまた同じ事が言える。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。