「命の最終責任者」

例えば自身が何か反社会的な事をしてしまい、それに拠って抗議者たちが自宅に押し寄せ、大勢集まった民衆が過密状態に陥り、怪我人を出てしまったとしようか・・・・。

「コラー○○出てこい!」

などと煽っていた其の当人が怪我をしたとして、あなたはこの人を助けたいと思うだろうか・・・。

大抵は「ザマー・・・」と思うに違いないが、こうした場合でも人道上は勿論、広義では法的にも怪我人を放置してはならない。

緊急時は家に在る救急箱を提供し、或いは救急車の手配をし、怪我人の救済をするのが正しい。

勿論、本人が拒否した場合、直接の手当はできないが、それでも救急車を呼び、警察官を呼ぶ程度は行なう事を「法」は奨励している。

ここで言う法の奨励と言うのは、それが望ましいものの、現状に鑑みて履行できない場合、加害しない限り法的罰則を負わない事を言い、このマクロ的な思想が政府や行政に措ける「国民の財産、生命を守る」と言う日本国憲法、民法の根幹を為す思想の一部を構築している。

政府や行政は国民の生命財産を守ると言う大前提を負っていて、政府の政策に反対し大勢の民衆が集まり、其の中で怪我人が出てしまった時、抗議を受けている政府、行政の当事者が怪我人を放置する在り様は奨励されない。

勿論警察機構などが群衆を排除する場合でも、暴力や力の行使のない者を暴力で排除する事は出来ないが、抵抗する場合は権利に拠って保障されている暴力が履行され、このケースでは民衆は暴力に対し、法的にも抵抗できない。

こうした意味では警察機構と言うのは道具なので在り、道具は法的に誤りが無ければ現状に対処して暴力を発動できるが、政府や行政と言った大きな権力は、原則を超えた言動を起こす事を躊躇しなければ、其の権威が保てない。

「国民の生命財産を守る」と言う大前提は如何なる場合でも大きく踏み外してはならない事から、例え政府に抗議してデモが発生し、其の中から怪我人や死者が出たとしても、「ザマー・・・」とは言えないどころか、逆に責任を追及される事になるのである。

唯、こうした場合全てが政府や行政の責任かと言えば、冒頭に出てきた「法の奨励」を思い出して頂ければ理解できるかと思うが、政府や行政から要請を受けてデモに参加している訳ではない、個人の自由意思に拠ってデモに参加している訳だから、怪我人、死者の、其の状態に至った全ての責任が政府や行政に在るとは言えない。

其の多くの要因が「自己責任」なので在り、少し違った方向から見てみると更に分かり易いが、祭りに参加していて酒を飲み、躓いて川に転落して死亡したとするなら、この責任は誰に在るだろうか・・・。

祭りの主催者だろうか、或いは橋を管理している国土交通省だろうか・・・。

そして祭りの主催者にしても、国土交通省にしても、物理的にそこまでの管理が可能だろうか・・・。

結果として祭りの主催者が起訴されるくらいの事は有っても、損害賠償請求は為されないのが1980年代までの日本だった。

今日に至ってはこうした事例でも必ずと言って良いほど賠償請求訴訟が為されるが、ここで亡くなった方は被害者か否かと言うと、当事者では有っても祭りに参加して躓いたのは本人の意思や行動であり、被害者では無い。

こうした場合に措ける主催者や道路管理者は、個人の自由意志と本人の過失に対してまで全面的な責任を負えるのか否か、まるで自己決定に措ける責任を本人が忌避したような在り様になっていないか、そんな事も考えて頂ければと思う。

そしてこれまでのケースは主催者や其の概念に近い存在が在ったが、完全に偶然で多くの人が集まり、そこで人の過密が原因で事故が発生した時、訴えるべき主催者は無く、最終的には「国民の生命財産を守る」立場にある政府がこの責任を負う事は間違いではない。

だが、其の場に至ったのは本人の自由意思で在り、尚且つ自身の生命は「自分」が最終責任者である事を忘れてはならない。

人間が大きな事故に遭遇するのは、絶好調、幸福の真ただ中の時であり、注意や警戒、深い思慮を忘れている時である。

イベントは楽しく、暗い雰囲気の中で開催される祭りも悪くない、アイドルの追っかけも良いだろうが、そんな時ほど命の危機が迫っている事を忘れず、人の命は絶対的価値観を持っていない、何にも優っているのは自身と親族だけで在り、他者からしたら1人の人間の命は、必ずしも絶対的価値ではない。

またこうした自身が負わねばならない命の責任まで、常に政府や行政相手に100%の責任を負わせていると、政府や行政はこうした事態に対処すべく細かく監視、管理を徹底し、責任回避しようと言う方向に傾いて行く。

結果として自身の命の最終責任近くまで、監視、管理が届いて来る事になるので、原理としてはAI制御自動運転の自動車と同じで、何もしなくても目的地へ行く事はできるが、緊急時に措ける自身の命の行方も自動車が決定権を持つに同じ、気付かない内に統制社会、社会主義的な国家の在り様になって行く可能性が在る。

最後に、実は深い意味では自身の命の最終決定権は「自分」ではないのだが、今回は社会と言う観点から命の最終決定権者を「自分」と仮定させて頂いた。

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。