「記憶の非連続性」

夫婦喧嘩の原因など、他者からすると些細な事に端を発している場合が多いが、ここではお互いの主張に付いて自己の主張こそが絶対で、相手の主張は間違っていると言う大前提の基に議論が為されている事になり、これは例えば「ああ言った」「こう言った」と言う過去の記憶に関して、自身の記憶こそが絶対で有ると思っている者同士のぶつかり合いになる。

だがこの場合、お互いの主張は相互に正確な過去の記憶ではなく、激情に駆られた今を基準に、今作られた過去の記憶なのである。

記憶と言うと過去の概念が強いかも知れないが、実は今思っている事も言語や視覚の観点からすると浅い過去なのであり、記憶と現状の前を行き来しながら作られているものと言う事ができ、厳密には未来の概念も記憶と今の状況、それに過去の経験から組み上げられた記憶の発展形と言えるかも知れない。

それゆえ記憶は、状況によって色んなものを引っ張ってきて今を解析しようとするが、その記憶は過去のリアルタイムに発生した現実とは必ず異なって概念されていて、冒頭の夫婦喧嘩もそうだが、過去の言葉を自分は正確に記憶しているように思うかも知れないが、もしかしたら接続詞が「しかし」だったものが、いつの間にか「しかも」に変換されているかも知れず、助動詞も違っていたかも知れない。

尚且つ言った方の言葉の記憶は浅いが、言われた方の記憶は意外に深い。
ここではその一つの言葉を巡る価値観や重要性の認識が同じフレームの中には入っていない。
そこで自身の記憶を疑う者は少ない為、言った言わないの対立が発生するのだが、その現実は確かに言っていて、しかも言われた方が記憶している言葉も間違っている。

人間は過去、現在、未来を連続性を持ったものとして概念しているが、これは基本的に全て「今」でしかなく、その今も認識した時点で過去になる。
言語にも同じことが言えるが、言葉を喋っている時、既に喋った事の記憶は時間経過と共にタイトルだけになり、少し前に喋った事と、現状、それから予測される自分の言葉を行き来しながら、言語は組み立てられる。

今喋っている言語は少し前の過去と、予測される未来が有って今と言う時間経過を止めずに動いているのであり、視覚も同じように少し前に見たものと、これから見ようとするものが存在して今見ているものが認識される。

過去が比較的安定した感覚で有るのは既に終わっているからであり、その記憶には各セクターから多くの情報が連結され、これをして確定的になっている。
が、しかしこれらはどこかに保管されているものがその都度出てくるのではなく、その瞬間に色んなものが組み合わされて作られている。

つまり記憶の構造はインターネットの光通信と良く似ているのであり、情報がケーブルを伝達し、それが逐次画像に変換される仕組みの三次元的複合形式のようなもので、
色んな要素がその都度集められ、その場に応じて記憶が構築される事から、我々が確定的に思っている過去の記憶は確定感覚を持ちながら、全く同じものが出てきている訳ではないのである。

厳密に言えば過去の記憶も、今と認識しているものも、未来と概念されているものも全く同じ感覚のものは無く、全く同じ記憶のものも存在しないので有る。

そして一般的にこうした記憶の連続性や整合性を我々は認識しているが、この認識は幻想で、記憶は基本的にその都度構成されるため連続性が無い事から、「Multiple personality Disorder」(多重人格)、或いは「Dissociative Identity Disorder)(解離性同一障害)は人間の基礎的な要素でも有る。

人間が持つ時間経過の整合性、過去、現在、未来の流れは社会的なものであり、この社会的要素が半ば本能などに近い部分でバイオプログラムされる事で人間の脳は構成され、社会的な契約や約束は時代に拠って変化する。

この社会的な部分に対する反応、考え方や行動がその時代に適合しなければ変わった人となり、最終的にこうした人はどうリアクションしたら良いかに迷い、少し早いか少し遅い行動になり、これが追い詰められると記憶がその都度ねじ曲げられてしまう事になる。

普段は温厚な人でも車を運転すれば暴走族並の人は沢山存在するが、これなども基本的には多重人格でありながら、一般社会には割りと多い事からから精神障害と概念されない。
しかし明確に記憶の非連続性、つまり幻想では有っても社会的な部分での記憶の連続性が途切れている状態、統合失調であり、このような要素は人間の基礎的なものである。

記憶と現実は表と裏の関係に有り、例えば現実が厳しいと記憶が歪められ、記憶が歪められるとその個人の現実社会が歪められる。
記憶が状況に応じて勝手に作られて行くのであり、多重人格や統合失調症の原因を幼少期の虐待、主に性的部分に求める欧米の精神・神経医学には大きな疑問が発生する。

成人男女の3歳から8歳くらいまでの記憶は通常でも明確ではない。
親の期待が大きく、その為に良い子でいなくてはならないとしたら、これも広義では虐待に概念されるとしたら、そこから逃れるために過去の記憶が歪められる事になり、その一番社会的整合性を持つ一般理論が性的虐待と言う安易な流れだけでは、いつまで経っても問題は解決しないかも知れない。

親と言う社会が歪んでくると、子供の脳を構成するバイオプログラムが歪み、その子供が大人になると社会を歪めていく。

こうした連鎖の一番の原因は「非耐性」であり、他者の自由を尊重しようとする概念を社会的自由とするなら、自己の欲求を達成する自由は抑制されるが、このバランスが崩れると自己の自由が大きくなり、この事が社会を歪め、結果として個人の自由も歪められるからかも知れない・・・・。

人間が聞いている声、景色や言語もそうだが、それは現実の事象が記憶を通って認識されているもので、記憶が歪められると実体から離れた声を聞き、現実には無い景色が見えた事になる。

赤い花を見ている時、脳は赤い花を見ている事を認識していない。
その瞬間、その花の形状、色彩に関するあらゆる記憶が集まり、「あっ、赤い花だ」と記憶される。
つまり我々が見ているもの、聞いている音、感じる感触、味覚も全て記憶だと言う事だ・・・。

[本文は2014年12月2日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。