「自分の鞘」

武術、書、囲碁将棋の世界も同じかも知れないが、そこで与えられている「段位」の中で、現実的に一番力の有る段位は三段から五段と言われていて、これより上の段位は功績段位の意味合いが強いが、もしかしたら既に闘わずして勝つ人、闘わずして勝てる人という意味も有るのかも知れない。

既に亡くなられて久しいが、私の所から年に1、2回茶道具を買ってくれていた男性がいて、彼は合気道七段、しかも私よりは40歳以上も年長の人だったが、一度だけ家を訪ねてくれた事が有った。

そのおり、おそらく私の仕事を気遣ってだと思うが、こんな話しをしてくれた事を憶えている。
「刀以上に難しいのが鞘(さや)だ・・・・」
「刀に過ぎると愚かになり、刀に及ばないと卑しくなる」
「良い刀以上に良い鞘を捜すのは大変なんだ・・・」

ちょうど秋の稲刈りが終わった10月中旬の頃だっただろうか、そうした時期を選ぶ事も然ることながら、わざわざ京都から来ていながら、その日はまことに良い天気で暖かく、彼は家には上がろうとせず、「外で話しませんか」と言うと、近くの土手に腰を降ろしたのだった。

私はそこへ茶と菓子を運び、彼方まで稲が刈り取られた田が続く景色、あらゆる悲しみや苦難すらも何も無かったかのような穏やかな日差しの中で、おそらく半分以上沈黙だったかも知れず、また何を話したのかも良く憶えていないが、ただ座っていた・・・・。

だがそこへ家で飼っていた猫が私たちの姿を見つけ近付いて来たかと思うと、私と彼を暫く見比べるようにしていたが、やがてすごすごと彼の膝の上に上がり始めたのだった。
私は思わず猫を制止しようとしたが、彼はその私の出した手に、目で「いいんだよ」と言うと、猫を膝に上げ頭を撫でた。

「君も忙しい暮らしを送っているんだな」
彼は私を見て微笑んだが、そうだ、その通りだった。
猫は何時も私の膝には乗ってこない。

何故ならせっかく膝に乗っても、すぐに立ち上がらなければならない事が多い為で、猫は何時も私の顔色を伺いつつも、私から抱き寄せない限り膝に乗る事は無かったのである。

刀の鞘は、余り光沢があり過ぎると切れ味が良くても繊細な刀に同じで、そもそも余り光っていたのでは鞘に刀の禍々しさが出てしまう。
また過度に装飾の多いものは風の逆らいを受け、流れを乱す。

一方刀に比して貧相な鞘は人の心のずるさ、心の卑しさが出る。
華美なものは自身の傲慢さを持ち歩いているようなものであり、光沢の鋭いものは禍々しさを持ち歩き、中のものに比して貧しいものは心の醜さを持ち歩いている。

そしてこれは鞘に限らず器の全てに同じことが言え、人も同じかも知れない。
自分を大きく見せようとする事は愚かだが、それを極端に小さく貧しく見せる事の卑屈さもまた、大きく見せることの傲慢さに同じで、卑屈と傲慢とはまさに表裏一体のものかも知れない・・・。

彼は京都から来てたった1時間、近くの土手に座って景色を眺め、土産の生八橋(なま・やつはし)を置いて帰っていった。
最後に良い鞘がないから、いつか良い鞘を作ってくれと言っていたのだが、それから数年後、結局私は良い鞘を作る事も出来ないまま、彼は帰らぬ人になってしまった。

私は今でも人の家を訪ねるとき、天気が良い日には彼の真似をして「外で話しませんか」と言う事にしている。
最大の敬意はそれを侵さない事であり、家が有ってもそれが人のものなら出来るだけこれを使わず、一番心地良ければ外を、天を使う。

先生、私はあなたの鞘を作ることが出来なかったのみならず、情けない事に自分の鞘すら未だに作ることが出来ずにいます・・・・。

[本文は2014年12月10日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。