「死者の場」

黄泉の国と言うと我々は一般的に地面の下、地下を概念し易いが、古事記の記述から日本を創世したイザナギ、イザナミの両神の内、イザナミ神が死に、それをいとおしく思うイザナギ神が黄泉の国にイザナミを訪ねたおり、腐食して醜い姿となったイザナミと、黄泉の国の醜女達に追われ逃げて来たところが「坂本」となっている。

「坂本」とはこれから坂を上るにしても下るにしても坂の下方向であり、逃げてきたイザナギと言う表現から、彼がこれから逃げるなら坂本に辿り着くと言う表現は整合性を持たず、従ってイザナギは坂を逃げてきて坂の下に辿り着く事になる。

つまりイザナギは地面の底から逃げて坂を上がってきたのではなく、坂の上から下へ逃げ降りてきたのである。
この事から古事記に観る黄泉の国は我々が暮らす土地(平地)に比して高い場所に在る事になる。

黄泉と言う言葉の「黄」は古代中国の陰陽五行思想の「土」を体し、古代中国では地下に死者の存在する場が有ると考えられたが、「ヨミ」と言う大和言葉に漢字の黄泉が充当された為、本来存在した黄泉の概念は変遷し曖昧になる。

日本に措ける最も古い黄泉の概念は地下を流れる泉、若しくは水である。

日本書紀にも同じような死者の国として「根の国」と言う表現が出てくるが、「根」とは終って帰る場の意味を持ち、太陽の沈む方向を示していて、日本で「根」が付く地名は「島根県」である。

この事から出雲地方を「黄泉」とする考え方が出てくるが、これは大和政権に措ける力の関係から発生してきたもので、聖徳太子の「日沈む国の天子にいたす」と同じような流れと考えられているが、一方黄泉の国の概念には「圏外」の概念が有り、日常に対する非日常、秩序に対する非秩序、統治外の概念が有り、平地に隣接する非秩序は「山」である。

死者を葬る場として我々が暮らす平地の下、「谷」にこれを投げ入れる事はしにくい。
しかし通常暮らしている場にそれらを葬ると場としての制限が増える事になり、非生活圏の少し高い場、近くの山がこれに最も適していたといたと言う事なのではないだろうか。

平安京でも京都盆地に対する嵐山などは「魔界」であり、日本各地に昭和30年代まで残っていた村落の火葬場は生活圏に隣接する山の中腹などに設けられ、そして山は恐れられた。

またイザナギはイザナミに会う為「根の堅州国」と言う所へ入り、そこから逃げ帰っている事になるが、黄泉の国と「根の国」は同一のものか、或いは別のものかと言う議論は諸説あるものの、「根の堅州国」と言う表現に在るように「根」は多くの国の総称であり、黄泉は「黄泉の国」である。
この事から「根の国」の概念の方が黄泉の国の概念より広さを感じ、黄泉は地下の泉をも指している。

地下の泉とは「生まれるものの基」であり、これとそれぞれの地域に存在した「非生活圏」の概念、死者の国が融合して「黄泉の国」が発生してきたと考えるべきなのかも知れない。

実際の黄泉の国はかなり狭い地域を指していた可能性が有り、例えば安来市造山古墳に見るように、鳥取県米子市夜見町(よみまち)から島根県松江市東出雲町黄泉比良坂(伊賦夜坂)までの地域が黄泉の国だった可能性も有り、主要地域に対して僻地性の高い場を黄泉の国として限定していたとも考えられるのである。

現在も残る黄泉比良坂(伊賦夜坂)、黄泉の国までの半分の道のりがこの坂だとされているが、平地に隣接する山を限定して死者を埋葬する思想習慣がそれぞれの地域に存在し、こうした地域に黄泉と言う漢字が充当されたものの、「根の国」に始まって日本の神の概念は平面思想であり、こうした中に黄泉に対する中国古典思想である「地下思想」が融合し、いつしか黄泉の国は漠然化した概念になってしまったが、基本的に黄泉の国は「彼方の地」である「根の国」の一部で、人界に隣接している地と言う事になる。

ちなみに黄泉の国には統一思想が感じられず、この意味では旧約聖書の「シェオル」、新約聖書の「ハデス」のように単なる死者のいる場所と言う概念に近いが、面白いのは死者が最終決定ではない点に有る。

「ハデス」にしろ「シェオル」にせよ「黄泉」にしても「その先」が在るのであり、死者の位置に関する決定が未来に先送りされている事である。

古事記や日本書紀、日本神話に観る死者のその後に対する関心は薄い。

これが「魂」の思想へと本格的に繋がるのは日本に仏教が伝来し、輪廻転生思想が伝わってからと言う事になるが、欧米の宗教観でも日本の宗教観でも、死者のその後に人間社会と相対する整合性が付けられるのは国家が形成され、そこで経済が発展してきた時期と符合する。

死後の世界の創造は現実世界の豊かさに比例して進んでいく。

しかし天国にせよ地獄にせよ極楽にせよ、或いは幽霊となって彷徨うにせよ、そうした「場」は創造できても、我々は死者が今どこに存在しているのかを知る事はできない。

死者を入れる箱は創造できていても、死者そのものの創造が出来ておらず、それぞれの宗教観によって死後の恐怖が蔓延しながら、死後は更に混乱している状態と言えるかも知れない。

北欧神話の中には大地が望まなくても落とされた精液で子を為す記述が出てくる。

原因に対する結果の考え方として、そこに意味が有ろうと無かろうと、理不尽で有ろうとも結果が生じ、そこから世界が動いていく話が出てくるが、日本神話などに見られる死者のその後の曖昧性は、先の解らない未来に対し、その現実を最も良く現しているのかも知れない。

解らない事を無理に解ろうとし、それを人間が自身の範囲で整合性を付けようとした時から死者の世界は混乱し始め、如いては生きる事の混乱が始まるのである。

[本文は2015年5月17日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。