「大きな正義の後ろに隠れて」

もう30年近くも前の事になるが、私が一時期勤務していた大手企業は、一般作業の作業員を人材派遣会社から求めていた時期があった。

しかし当時の人材派遣会社は今と違って、殆ど江戸時代の「口利き屋」のようなもので、大概の派遣社員は事情を抱えた人が多く、家族と連絡の取れないもの、夜逃げした者、或いは一般社会で普通に会社へ勤務できない人が多かった。

そんな中で私が同郷だと知った人材派遣会社の社員2名が、ある日私に声をかけたのだが、彼等は一様に自分の過去を気にしていて、一緒に働いている人にそれを話すべきか否か、またどう人と接して良いかが解らないと言う事だった。

2名とも私よりは遥かに年上の人だったが、一人は殺人を犯し服役が終った人、もう一人は暴力団同士の抗争に巻き込まれ、自分の組が解散させられた暴力団の元組長だった。

彼等は「自分達の事は恐いですか」と私に尋ねたが、私は彼らの中に誠実さや謙虚さを感じた事から、「恐いとは思わない」と答え、ついでに「この会社は仕事さへしてくれたら人の過去は問わない」
「あなた方は今は法的な責任を何も背負っていないのだから、堂々と過ごせば良いし、誰に臆する必要も無い」
そう、答えた記憶が有り、彼等は私の言葉に一挙に嬉しそうな表情になった。

だが結局それから1ヶ月後、一人は近くの食堂で働いていたウェートレスと一緒に行方不明になり、もう一人は宝くじを買いに行くからと言って仲間から金を集め、戻って来なかった。

この時代よく有る話で、結局彼等は彼等を見る周囲の評価通りの結末しか招く事は無かったのかも知れないが、私は彼等から自分達の過去について相談を受けて以降、彼等が自分で言うならともかく、私の口からは他の誰にも彼等の過去を話す事はしなかった。

同郷と言うだけの僅かな繋がりでも頼るしかなかった彼等、誰からも信じてもらえない彼等、そう言う結果しか招く事の出来ない彼等を、心の底のどこかでは自分だけでも信じてやりたかったのかも知れない。

行方不明なってから、特に金を持ち逃げされた人たちの不満は、彼等の批判となって私の耳にも入ってきて、勿論私はその時皆に同調して「あいつ等は元暴力団、殺人犯だったんだよ」と言う事も出来た。
そしてそれを話してしまったからと言って、彼等が私に報復すると言う事態も起こるはずも無かっただろう。

だが、私はどうしても本人がいないところで、その人間の悪口を言うその自分自身の姿が許せなかった。
もはや言うても詮無き事を言って、その時の周囲と同調するより、守れるものなら例え裏切られたとしても、彼等に自分の「信」を示してやりたかった。
いや、彼等のためではなく、自分の為にそうしたかったのだろう。

医師や弁護士、或いは公務員などもそうだが、自分が知り得た個人の情報を第三者に漏洩させる事は「守秘義務」に違反する事になり、こうした事は本当は「法」の以前に人として初めから制約を受けているものである為、民間の個人同士でもこれに準じた制約は「信」の一つとして存在する。

別の言い方をすれば小さな正義と大きな正義の衝突、小さな自由と大きな自由の衝突と言っても良いか・・・。

親しい友人、また家族が理由が有って犯罪を犯し逃走したが後に帰ってきた来た場合、我々はすぐにこれを警察に連絡できるか否か、そしてこれが夫婦や恋人同士だった時、なんの躊躇も無く騙して引き止め警察に連絡した場合、警察は勿論捜査に協力した事を感謝するだろうが、同時にこの夫婦や恋人同士には人間的「信」が無かった、そう言う関係の哀れさも感じる事になる。

「法」は大義であり大きな正義だが、それを唯守っただけでは人としての「信」を得る事は難しく、この大きな正義の中でどれだけ自分と言う小さな正義を反映できるか、反映させたかによって「信」と「不信」に別れ、これが法の外、民事の個人同士の約束の場合、更に小さな正義の重要性は高まる。

第三者が知らない情報を人から打ち明けられた者は、例えばその話の中で隠蔽や虚偽が有ったとしても、これをして悪と看做し世間に公表する事は、必要の無い大きな正義を使った自己保身、或いは守るべき小さな正義を放棄して、大きな正義の影に隠れた売名行為に同じかも知れない。

人から相談をされた者は、法に違反していなければ例え申告者に虚偽が有ったとしても、これをして第三者が知り得ない情報を元に社会正義を訴える事は、決して社会正義ではなく、小さな正義を自分で裏切った事にしかならないような気がする。

大きな正義の根本は小さな正義の集積であり、小さな正義を蔑ろにした大きな正義は正義とはなり得ないかも知れない。
また正義とは個人の思想、社会の思想でしかなく、ここで問われているものは他との比較ではない。
自分がどうなのかと言う事なのである。

昨今のインターネット事情に鑑みるに、情報を得る事の恐さ、必要以外の事を知る恐さを思う。
自分自身が勘違いした大きな正義に惑わされ、小さな正義を蔑ろにする誘惑がゴロゴロ転がっているような気がする・・・。

[本文は2015年5月29日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

 

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。