「偏りの不正確性」

パーソナルコンピュータの情報処理モデルは人間の脳の情報処理形態、その表皮をモデルスケールにしている為、しばしば情報処理形態の発展過程で同じ傾向を示す場合が多くなるが、決定的な差異は「偏りに対する正確性」であり、「偏り」とは「関連付け」に関するモジュールの事を言う。

インターネットの世界はコンピュータと人間が半ば融合した状態になっている事から、その情報処理結果は実に人間的な事になるが、本来パーソナルコンピュータが示す情報の偏りは関連付けである事から、その結果に措いて全く関連性の無い情報を繋ぐ糸は細くなるが、これに人間の認知行動が加わると、関連付けに曖昧な部分が多くなり、やがてほんの小さな一つの情報に対して、全ての情報が関っていく方向へと動いていく。

最先端の科学者がいつかコンピュータ世界が人間を超えるのではないかと危惧する、その恐れの正体は既に始まっている感が有るが、冒頭で出てきた「偏りに対する正確性」の決定的な差異の質はパーソナルコンピュータでは「正解」から「誤りではない」までを指すが、人間のそれは「誤り」も含んで「正解」と認知される点である。

我々人類の行動には本来意味が無い。
そこに意味、「良い」と「悪い」が発生するのは自己保全の観点と、これを担保するであろう社会が評価基準となっている。

従って「良い」と「悪い」はほぼ同等の確率を持っているが、これに偏りを加えるのが人間の「因果律判断」に関する不正確性であり、本来情報の質は必要、不必要だけでも偏りを生じせしめるが、ここに不正確性因果律に関するモジュールが加わると、情報の偏りはダイナミックに傾斜していく。

つまり情報処理形態が全て片方に向かって行くのであり、これを左右しているものは感情かも知れないし、或いは人間の脳が情報を処理する為に常に必要な事だからかも知れないが、人間は必ず全ての事象に対して何らかの関連性を付けずにはいられないのであり、この過程でパーソナルコンピュータがはじく情報、相反する情報も含めて一方向へ向かっていくのが人間のモデルスケールなのである。

私が山道を歩いていて雉と蛇に出会う確率は大体同じかも知れないが、この後に良い事が有った場合は雉に出会った事象が大きく評価され、蛇に遭遇した事実は片隅に追いやられ小さな扱いになる、場合によってはそれは無かった事にされるかも知れない。

だがこの反対に何か悪い事が有った場合はどうかと言うと、おそらく蛇とその後に発生した悪い事象が関連付けられ、雉ですらその事象の関連付けに使われるかも知れない。

そして人間社会では常に個人が持つ小さな自由は「他の自由」や「大義の自由」と軋轢を起こしている為、一般的に良い事より悪い事の方が多くなり、これに他の事象が関連付けられる時、本来は意味のないものや事実と相反するものまでその中に押し込められ、完全に傾き始めると今度は全ての事象が片方に傾いて処理されて行くのである。

更に人間社会では自分に取って不利な状況や面白くない状況の方が多くなる事から、出発点の時点から既に良い事と悪い事では悪い事に傾いていて、初めから良い事に関連付けられる事象は少ない傾向にあり、悪い事に繋げる方向により大きな習慣性を持っている。

直近の過去は今の事象に対する判断に引っ張られ易いと言う事なのであり、一度そうして一つの方向へと向かった事象の判断は、その因果を次から次へと探すようになるのであり、こうなって行くとあらゆる事象がその一つを中心に関連付けられる。
宗教の始まりである。

そしてもう一つ、「恐れ」の始まりであり、例えば地震を例に取るなら、地震雲と同じような雲は地震が発生していなくても出ている。
だが、こうした珍しい雲の記憶が地震と言う事象の発生により傾いて関連付けられ、そこから過去の曖昧な記憶も手繰り寄せられて大きく膨らみ、やがて自身の内に決定的な事として確信されるに至る。

3日に一度はどこかで発生する日本の中規模以上の地震と、珍しい雲の関連性は「偶然」の範囲としか言い様の無い確率のものでしかない。

しかし一度傾いてしまった方向への集中は簡単に止まるものではなく、過去には雉にも蛇にも出会っているのに、その片方は棄てられるか或いは組み込まれるかして消され、自分が傾いている方向へとしか向かわない事になる。

気象庁も大学の研究機関も地震雲に対する確率を否定しているが、これはその確率が無いと言う事ではなく、頻繁に発生する地震と雲の関係に措いて、そこに関連性を見るのは難しい、「何か嫌な予感がする」と言うのも同じだと言う事なのである。

唯、こうした中に有っても間違いなく地震と関連性の有る雲も存在するが、それらは我々が判断している地震雲より遥かに数が少なく、またその雲が現れたから間違いなく地震が発生するとも限らない。

だが、我々は現実の確率以上に地震と雲の関連付けを行っている。
これは地震雲の存在が云々と言うより、それを信じている、それを探しているからこそ見つけると言う事なのではないだろうか・・・。

そして人間はあらゆる場面で程度の差は有れ、こうした傾いた方向性の中で情報を処理し、感情を増幅させているのであり、やがてコンピュータがこうした傾向を獲得した時、人間が予め持つ偏りを獲得した時、もしかしたら人類はコンピュータに拠る叛乱を経験するのかも知れない・・・。

[本文は2015年6月5日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています]

T・asada
このブログの記事は「夏未夕 漆綾」第二席下地職人「浅田 正」 (表示名T・asada)が執筆しております。

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